後一条朝の万寿年間(1024~28年)に文章得業生となり、長元元年(1028年)父の藤原資業に次いで二代続けて対策に及第する。長元2年(1029年)若くして大学助に任ぜられ、長元4年(1031年)六位蔵人に補せられる。 後朱雀朝に入ると、従五位下・宮内大輔に叙任され、長暦元年(1037年)親仁親王が東宮に立てられると東宮学士を兼ねる。長暦4年(1040年)には左衛門権佐にも任ぜられている。 寛徳2年(1045年)親仁親王が即位(後冷泉天皇)すると正五位下に叙せられ、翌寛徳3年(1046年)五位蔵人に補せられるとともに大学頭も兼ねた。また、永承4年(1049年)従四位下、永承5年(1050年)正四位下と後冷泉朝の前期に急速に昇進を果たす。のち、永承6年(1051年)文章博士、康平5年(1063年)式部権大輔、康平6年(1064年)式部大輔と学者として諸官を歴任した。 その後、後冷泉朝・後三条朝・白河朝の三朝約20年近くに亘って式部大輔兼文章博士を務めたが、位階は正四位下に留まり公卿昇進は果たせなかった。またこの間の治暦3年(1068年)には能因を従えて伊予守として現地に赴任している。永保2年(1082年)3月23日卒去。享年71。漢詩人として『本朝続文粋』に漢詩作品が採録されている。
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始め右大臣・藤原俊家の二合(年官の一つ)によって縫殿助に任ぜられる。俊家は、有定の姉妹がその子・宗俊に嫁いでいるので、義兄弟の父にあたる。3人の兄らが皆蔵人に補せられたのに対して、有定は蔵人に補せられることなく従五位下に叙爵され、皇太子実仁親王の春宮少進に任ぜられた。 しかし、応徳2年(1085年)11月、実仁親王が15歳で夭折すると官職を失う。その後、有定は淡路守に任官。寛治8年(1094年)正月に治国が賞されて従五位上に叙せられた。同年3月、病を患って日野に参籠するが、18日に卒去した。享年52。 舅にあたる藤原宗忠と親しく、有定の死去にあたって宗忠はひどく悲しんだという。橘為仲とも交流があったようで、『金葉和歌集』には為仲が奥州に下る折に詠んだ歌が入集している。
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