<藤原氏>北家 真夏流

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藤原親経

 承安2年(1172年)宮内権少輔に補任され、治承2年(1178年)東宮学士を兼任。治承3年(1179年)に蔵人となる。治承4年(1180年)安徳天皇の践祚により高倉院の判官代となる。文治元年(1185年)源頼朝の推挙により右少弁となり、建久6年(1195年)には右大弁に昇進、また記録所勾当,氏院別当,造興福寺長官,御書院別当,率分勾当などを兼任し、後白河院の院司、九条兼実の家司など務めた。
 建久9年(1198年)には後鳥羽院別当に補任され、左京権大夫,蔵人頭となる。正治2年(1200年)参議、建仁元年(1201年)従三位、建永元年(1206年)権中納言、承元2年(1208年)従二位に叙される。承元4年(1210年)熊野参詣の途上、紀伊国藤代宿で没する。
 詩歌に秀で、後鳥羽・土御門2代の侍読となり、九条兼実には「当時の儒者で右に出るものはいない」と絶賛されている。元久2年(1205年)には『新古今和歌集』の真名序文を作成した。日記に『親経卿記』、著書に『角黄記』,『東大寺供養式』などがある。