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藤原広業 | 藤原家経 |
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一条朝の長徳2年(996年)正月に昇殿を聴される。同年12月に文章生に補されると、長徳3年(997年)文章得業生となり、長徳4年(998年)弱冠22歳にして対策に及第する。式部少丞を経て、長保2年(1000年)従五位下・筑後権守に叙任される。 |
後一条朝の長和5年(1016年)頃文章得業生に補され、対策に及第。11月21日に文章博士・大江通直を問頭として家経へ試問が行われている。 |
藤原正家 | 藤原俊信 |
少年時代から神童の誉れ高く、『法華経』を1日に50部転読し、数万部を読んだといわれる。長じてからも学者の道を歩み、対策に及第したのち、左衛門尉・越中守を経て1061年(康平4年)に右少弁に任官、1065年(治暦元年)に文章博士を兼ねる。その後も弁官として昇進を重ね、1080年(承暦4年)に右大弁・勧学院別当、1087年(寛治元年)には式部権大輔として堀河天皇の御読書始に際して侍読を勤める、1095年(嘉保2年)式部大輔。 |
永保年間(1081~83年)に侍従を務め、それらの功労で寛保5年(1091年)に従五位上に叙せられる。その後、大内記を経て永長2年(1097年)に正五位下に昇叙される。翌年、右衛門権佐に任ぜられるが、康和元年(1099年)に俊信の従者が罪人を仲間に奪われるという事件が発生している。だが、その年に右少弁の兼務が命ぜられ、翌年には更に文章博士を兼ねた。 |
藤原顕業 | 藤原俊憲 |
白河院政期中盤の天永2年(1111年)文章得業生に補せられ、永久3年(1115年)対策に及第し、翌永久4年(1116年)六位蔵人となる。のち、左衛門少尉(検非違使尉)を兼ね、元永2年(1119年)従五位下・宮内少輔に叙任された。 |
文章博士・藤原顕業の養子として儒官の道に進む。若年より実父・信西譲りの才智をもって登用され、久寿2年(1155年)立太子して間もない守仁親王(のち二条天皇)の東宮学士に任ぜられる。翌保元元年(1156年)に発生した保元の乱後の除目で右少弁に任官。その後は保元の乱で権力を掌握した父・信西の権勢を背景として要職を歴任。保元2年(1157年)正五位下に昇叙し、それまでの東宮学士に加えて、五位蔵人,左少弁,左衛門権佐(検非違使佐)を兼ねて三事兼帯となり、「希代」のことと評された。保元3年(1158年)この年だけで正五位下・左少弁から一挙に正四位下・権左中弁に昇進する。また、後白河天皇から二条天皇への譲位に伴い、後白河上皇の院別当と二条天皇の蔵人頭を兼ねて、院と朝廷の橋渡し役も務めた。平治元年(1159年)4月に参議として公卿に列し、同年11月には従三位に叙せられる。 |