<藤原氏>北家 真夏流

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藤原広業 藤原家経

 一条朝の長徳2年(996年)正月に昇殿を聴される。同年12月に文章生に補されると、長徳3年(997年)文章得業生となり、長徳4年(998年)弱冠22歳にして対策に及第する。式部少丞を経て、長保2年(1000年)従五位下・筑後権守に叙任される。
 一条天皇の身近に仕える一方で、寛弘4年(1007年)東宮学士を兼ね、皇太子・居貞親王にも仕える。この間も順調に昇進し、寛弘5年(1008年)には文章博士も兼帯した。五位蔵人を務めていた寛弘3年(1006年)には同僚の藤原定佐との間で乱闘事件が発生、広業は顔を打たれて負傷し、定佐は1ヶ月間殿上から除籍されている。寛弘6年(1009年)には右少弁から伊予介に転じ、受領として同国へ赴任した。
 寛弘8年(1011年)正月に従四位下に叙されると、同年10月には居貞親王の即位(三条天皇)に伴って、東宮学士の功労として広業は二階昇進して正四位下に叙されるなど、1年間で四階という急速な昇進を果たす。寛弘9年(1012年)には式部大輔に任ぜられ、文人官僚のトップの座に就いている。
 長和2年(1013年)広業は伊予介の任期を終え、翌長和3年(1014年)正月に受領功過定が行われるが、権中納言・藤原行成から伊予国における敦康親王の封25戸の封物の納入不足を理由に、広業の合格に異議を唱えられる。これにより決定は10月まで伸びるが、広業による左大臣・藤原道長をはじめとして有力公卿への運動もあって、行成の意見は採り上げられず、広業は合格を果たしている。道長が広業を擁護した理由については、同年に予定されていた春宮・敦成親王(道長の外孫)の読書始の博士を、正四位下・式部大輔と文人官僚の筆頭である広業に務めさせたかったためと想定される。しかし、後任の伊予守で三条天皇の立后に関して道長と確執があった藤原為任が不与解由状の不提出という挙に出たことから、広業は本任放還とならず、博士を担うことが不可能となった。結局、博士は五位の東宮学士・大江挙周が務めることになり、道長は為任を深く恨んだという。
 長和5年(1016年)播磨守として再び地方官に転じるが、在任中の寛仁2年(1018年)に藤原道長の随身である右近衛府生の下毛野公忠や右近衛番長の下毛野光武,播磨貞安らに無礼を受ける。その後、道長はこの3人を懲戒した。寛仁3年(1019年)再び東宮学士となり、春宮・敦良親王に仕えている。
 寛仁4年(1020年)正四位上・参議に叙任され公卿に列す。治安4年(1024年)新元号の万寿を撰進し、同年12月従三位に至る。万寿4年(1027年)藤原道長と藤原行成が同日に没した際、後一条天皇に対して道長の薨請を行うとした関白・藤原頼通は、行成も加えて奏するように進言した大外記・清原頼隆を勘当してしまったが、これに関して広業の讒言があったともされる。
 万寿5年(1028年)4月13日薨去。享年53。
 度々披講し、長保元年(999年)頃に盛んに行われた作文会に参会し、題を献上していることが記録に見える。文・詩は『本朝文粋』『本朝麗藻』『類聚句題抄』などに残っている。

 後一条朝の長和5年(1016年)頃文章得業生に補され、対策に及第。11月21日に文章博士・大江通直を問頭として家経へ試問が行われている。
 六位蔵人兼右衛門尉を務めたのち従五位下に叙爵し、寛仁4年(1020年)刑部権少輔に任ぜられる。弾正少弼を経て、万寿2年(1025年)右少弁に遷ると、後一条朝の後半は弁官を務めたほか左衛門権佐も兼帯し、万寿3年(1026年)従五位上、長元3年(1032年)正五位下と昇進した。なお、この間の治安4年(1024年)3月1日に邸宅が全焼している。
 その後、民部権大輔を経て、正四位下・式部権大輔に至る。
 後冷泉朝の天喜2年(1054年)5月11日に出家。天喜6年(1058年)5月18日卒去。享年67。

藤原正家 藤原俊信

 少年時代から神童の誉れ高く、『法華経』を1日に50部転読し、数万部を読んだといわれる。長じてからも学者の道を歩み、対策に及第したのち、左衛門尉・越中守を経て1061年(康平4年)に右少弁に任官、1065年(治暦元年)に文章博士を兼ねる。その後も弁官として昇進を重ね、1080年(承暦4年)に右大弁・勧学院別当、1087年(寛治元年)には式部権大輔として堀河天皇の御読書始に際して侍読を勤める、1095年(嘉保2年)式部大輔。
 後三条天皇・白河天皇の時代において大江匡房と並んで双璧の学者とされた。儒学に優れていたことから「儒宗」と呼ばれ、さらには相人としての評判も高いなど博学多才であった。歌人でもあり、1051年(永承6年)の『侍臣歌合』を始めとして、『承暦二年内裏歌合』『嘉保元年前関白師実歌合』等に出詠、1108年(天仁元年)大嘗会では主基方の和歌の作者となった。『金葉和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に3首が入首。また、漢詩文でも大江匡房に並ぶ程の才能であったといわれる。
 『今鏡』から大江匡房,藤原実政と並ぶ、後三条天皇の近臣であったことが窺われる。

 永保年間(1081~83年)に侍従を務め、それらの功労で寛保5年(1091年)に従五位上に叙せられる。その後、大内記を経て永長2年(1097年)に正五位下に昇叙される。翌年、右衛門権佐に任ぜられるが、康和元年(1099年)に俊信の従者が罪人を仲間に奪われるという事件が発生している。だが、その年に右少弁の兼務が命ぜられ、翌年には更に文章博士を兼ねた。
 康和5年(1103年)には生後7ヶ月の宗仁親王(のち鳥羽天皇)の立太子を受けて東宮学士をも兼ねる。翌年の改元に際しては菅原在良とともに紀伝勘文を提出し、その勘案に基づいて「長治」の元号が採用された。だが長治2年(1105年)、父に先立って病没した。
藤原師実・師通父子から作文会の講師を命ぜられ、藤原忠実が藤氏長者になって最初の法成寺参詣に随行するなど、家司ではなかったものの、摂関家からの信任が厚かった。

藤原顕業 藤原俊憲

 白河院政期中盤の天永2年(1111年)文章得業生に補せられ、永久3年(1115年)対策に及第し、翌永久4年(1116年)六位蔵人となる。のち、左衛門少尉(検非違使尉)を兼ね、元永2年(1119年)従五位下・宮内少輔に叙任された。
 勘解由次官を経て、天治2年(1125年)従五位上・丹後権介に叙任されて地方官に転じる。任期を終えて帰京後の大治5年(1130年)鳥羽院の判官代を務め、大治6年(1131年)正五位下に昇叙された。
 長承元年(1132年)左少弁に遷ると、長承3年(1134年)従四位下・右中弁、保延3年(1137年)左中弁、保延4年(1138年)従四位上次いで正四位下と弁官を務めながら順調に昇進する。保延5年(1139年)には春宮・躰仁親王の学士も兼ね、永治元年(1141年)躰仁親王が即位(近衛天皇)すると、学士の功労により従三位・参議兼左大弁に叙任されて公卿に列した。
 議政官として引き続き弁官(左大弁)を兼帯する一方、天養元年(1144年)には式部大輔を兼ねて文人官僚の筆頭となる。久安4年(1148年)正月に大弁の労により正三位に至るが、5月11日に出家し14日に薨去。享年59。

 文章博士・藤原顕業の養子として儒官の道に進む。若年より実父・信西譲りの才智をもって登用され、久寿2年(1155年)立太子して間もない守仁親王(のち二条天皇)の東宮学士に任ぜられる。翌保元元年(1156年)に発生した保元の乱後の除目で右少弁に任官。その後は保元の乱で権力を掌握した父・信西の権勢を背景として要職を歴任。保元2年(1157年)正五位下に昇叙し、それまでの東宮学士に加えて、五位蔵人,左少弁,左衛門権佐(検非違使佐)を兼ねて三事兼帯となり、「希代」のことと評された。保元3年(1158年)この年だけで正五位下・左少弁から一挙に正四位下・権左中弁に昇進する。また、後白河天皇から二条天皇への譲位に伴い、後白河上皇の院別当と二条天皇の蔵人頭を兼ねて、院と朝廷の橋渡し役も務めた。平治元年(1159年)4月に参議として公卿に列し、同年11月には従三位に叙せられる。
 しかし、同年12月に平治の乱が勃発。父・信西は殺害され、さらに乱後、戦乱を招いた責任によりその子息は悉く流罪に処せられる。俊憲も解官の上で越後国(後に阿波国に変更)に配流となり、これを契機に出家して法名を真寂と称し、宰相入道と呼ばれた。翌永暦元年(1160年)には平安京に召還されるが、その後は政治の表舞台に立つことなく、仁安2年(1167年)4月10日卒去。享年46。
 『愚管抄』や『古事談』『続古事談』にその文才を物語る逸話がある。また、『玉葉』にも、かつて俊憲が「後白河院のもとでは戦乱が止まないであろう」と予言していたことが「聖人格言」として紹介されている。著書として『新任弁官抄』『貫首秘抄』があり、また歌人としても『千載和歌集』(2首)と『新勅撰和歌集』(1首)にその作が入選している。