F309:藤原広業 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原真夏 ― 藤原広業 ― 大道寺義清 | F311:大道寺義清 | ● |
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大道寺重時 | 大道寺盛昌 |
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発専の法名で知られている。伊勢宗瑞(北条早雲)の従兄弟とされ、初めは山城国にいたが、後に早雲と共に駿河国へ同行した御由緒六家の一人とされている。後に宗瑞の伊豆国平定に従事して同国の政務を補佐した。 |
重時から政繁までは諸説あり定かではない。そもそも早雲と一緒に駿河へ下向したのがこの盛昌である、とする異説もある。 |
大道寺周勝 | 大道寺政繁 |
河越夜戦の後、河越城の城代となった父・大道寺盛昌に代わって鎌倉代官となり、父の死後に河越城代となる。鎌倉の寺社領の検地を行うとともにその再建にも尽くした。天文23年(1553年)の武田信玄による駿河侵攻に対して北条氏康が北条氏繁,松田憲秀,大道寺周勝らを連れて今川義元の救援に駆けつけている。永禄元年(1558年)に行われた古河公方・足利義氏の鶴岡八幡宮参詣の際にこれを迎える準備を行っている。 |
政繁は北条氏康,氏政,氏直の3代に仕え、「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている。内政手腕に優れ、河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行,火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている。天正12年(1584年)には新たに坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎となっている。父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にもあたっていたと伝えられている。軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた。 |
大道寺資親 | 大道寺直繁 |
大道寺周勝の子とするのが通説であるが、弟や従兄弟とする説もある。大道寺政繁の父とも。周勝の生前よりその所領の一部を譲られていた。周勝の死後、河越城城代と鎌倉代官を兼ねた。永禄12年(1569年)には北条氏邦の指揮下で武田信玄支配下の駿河興津城を攻めた。同年には玉縄城主・北条氏繁に鎌倉代官を譲って行政と軍事の一体化が図られるが、行政の停滞を招いたためにその年のうちに中止されて復職している。 |
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で北条方が敗れ、戦国大名としての北条家は滅亡。秀吉の命により父・政繁は自害したが、北条氏直や政繁の子供たちは助命され、長男の直繁は氏直と共に配流先の高野山へ同行する。翌天正19年(1591年)1月から氏直は赦免活動を開始し、早くも2月にはこれが認められて間もなく解放されたものの、11月に氏直が急死。その所領は小田原征伐を生き延びた北条一門・北条氏規が引き継いだが、直繁は氏規には仕えず徳川氏に奔り、家康の跡を継いで江戸幕府第2代将軍となった徳川秀忠に召し出され仕えた。 |
大道寺重祐(友山) | 遠山直次 |
父・繁久は松平忠輝に仕えた元越後高田藩士であったが、高田松平家が元和2年(1616年)に改易されて以来浪人となっていた。友山は長ずるに及んで江戸に出て、小幡景憲,北条氏長,山鹿素行らに師事して甲州流軍学を学び、軍学者として身を立てる。その博識を買われ安芸広島藩浅野氏,会津藩松平氏の客分を経て、越前松平氏の福井藩に迎えられ、主に軍学を講じた。 |
はじめ北条氏直に仕える。1590年の小田原征伐で父が自刃し、後北条氏が滅亡すると、母方の姓を名乗り、遠山長右衛門と改名して黒田如水の家臣となる。その後、豊臣秀次の家臣となったが、秀次が1595年の秀次事件で自刃したため、福島正則の家臣となった。正則に仕えて関ヶ原の戦いにも従軍して功を挙げた。 |
大道寺直英 | 大道寺直秀 |
紀伊国牟婁郡藤縄の住人・舎人経忠と後北条氏家臣・遠山綱景の娘との間に誕生した。永禄6年(1563年)の第二次国府台合戦において遠山綱景と共に舎人経忠が戦死した。 |
慶長11年(1606年)、福島正則の甥・福島正之(正則の姉と別所重宗の間の子)の子として誕生。母は松平康元の娘・満天姫(徳川家康の養女)。
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大道寺順正 | |
天保7年(1836年)、兄・繁元が藩主の津軽信順の怒りを買い、自害したため、家督を継いだ。天保10年(1839年)、黒石藩主であった津軽順承を弘前藩主に押し上げ、用人から家老に出世した。この際には、多数の重臣が津軽家の血統を絶やすことに反対し、藩内に大きなしこりを残した。さらに、順承の跡継ぎとして津軽承昭を迎えた際にも、独断で話を進めた。そのため、多くの書物で津軽の血統を2度も絶った佞臣として扱われている。 |