村上源氏

G817:久我通言  源 師房 ― 源 顕房 ― 源 雅実 ― 久我通光 ― 久我通言 ― 岩倉具堯 G820:岩倉具堯

リンク G821
文守 岩倉具慶

 江戸時代の臨済宗の僧。後水尾天皇に近侍した。諡は仏頂国師。道号は一絲とも表記する。
 寛永3年(1626年)に真言宗西明寺の賢俊良永により得度して法名を文守としたが、翌年、大徳寺の沢庵宗彭の影響により臨済宗に転宗した。寛永6年(1628年)沢庵宗彭が紫衣事件により出羽国に配流されると、これに従ったが、翌年には一人で京に戻った。このころより近衛信尋などの公家との交流が深まるが、後水尾上皇との交流も弟近衛信尋の仲介によるものとされる。寛永11年(1634年)、丹波国に桐江庵(のちの法常寺)を建立し住んだが、しばしば上皇は京に呼び寄せている。寛永15年(1638年)、上皇は京都西賀茂に霊源庵(のちの霊源寺)を建て、そこに一糸を住まわせたが、同年末には桐江庵に戻された。そこで上皇は寛永18年(1641年)、桐江庵を法常寺とし、一糸を開山とした。寛永20年(1643年)、当時の住持の求めに従い近江永源寺に住し、寺の中興に力を尽くした。その3年後、正保3年(1646年)3月19日、39歳で逝去。没後30年目の延宝3年(1675年)、後水尾院より「定慧明光仏頂国師」の号を贈られた。

 権大納言・岩倉具集の子である具満、養子の具賢がともに早世したため、具集の養子となり岩倉家を継いだ。文政3年(1820年)に元服と共に叙爵。以降累進して嘉永3年(1850年)従三位左近衛中将となり公卿に列する。
 安政元年(1854年)には正三位に進んだが、安政5年(1858年)の安政の大獄の廷臣八十八卿列参事件で養子の具視や養孫の具綱と共に連座した。明治元年(1868年)に参議に任じられ、新政府でも右兵衛督行政官補相職や大総督府副総裁兼議定職などを歴任した。
 子は娘のみであったため、天保9年(1838年)に堀河康親の子・具視を婿養子(次女の誠子と婚姻)として迎えた。

岩倉具視 岩倉具定
「Wikipediaの岩倉具視」を参照  戊辰戦争に従軍し各地を転戦。1870年(明治3)アメリカに留学、帰国後政府に出仕。1882年(明治15)伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡る。1884年(明治17)に家督を継ぎ公爵。帝室制度取調委員,貴族院議員,学習院院長を歴任。1900年(明治33)枢密顧問官、1909年(明治42)宮内大臣となる。
岩倉具張 岩倉具子

 東京帝国大学在学中、西郷従道の長女桜子と結婚。1905年12月1日、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営。1906年11月30日、陸軍歩兵軍曹に任ぜられ満期除隊。1907年3月7日、内務属に任ぜられ、同日から内務省地方局に勤務する。1908年6月、陸軍歩兵少尉に任ぜられ、同日予備役を仰せ付けられる。
 1910年4月13日、父具定の死により襲爵。同日、貴族院議員となる。1911年3月、宮内省御用掛を仰せ付けられる。同年12月、宮内省御用掛を免ぜられ、宮内書記官となる。1912年7月31日、大喪使事務官を仰せ付けられる。同年9月10日、明治天皇霊柩供奉を仰せ付けられる。1913年2月27日、皇太后陛下沼津行啓供奉を仰せ付けられる。同年2月8日、皇太后主事兼宮内書記官に任ぜられる。
 このころ、投機的商人の誘いに乗って土地投機に手を出して失敗。鉄道敷設予定地という触れ込みで紹介された土地を北海道で大々的に買い漁ったものの、実際の鉄道は三菱財閥のオーナー一族・岩崎家が購入した土地を通り、具張の土地は素通りしてしまった。これにより具張は当時の金で300万円(現在の貨幣価値で数百億円)もの損害を受けた。さらに具張は新橋の芸者のもとに通い詰め、ひいきの芸者を落籍してレストランを開かせるなどの放蕩で一族の資産を浪費。この後始末に困って高利貸に頼ったところ、1914年7月21日、東京霞ヶ関の自邸を差し押さえられ、スキャンダルとなる。これら負債累積など家計紊乱の責任を取って、1914年7月20日、宮内書記官を辞任。同年7月29日、皇太后宮主事を辞任。同年8月29日、親族会議の結果、家督を長男具栄に強制的に譲らされ、隠居。同年暮より行方不明となる。
 1915年、北海道タイムス記者によって福島県飯坂温泉で発見され、東京に連れ戻される。1916年9月15日、借金を踏み倒したまま隠居して返済義務を逃れようとした廉により、合名会社大橋銀行より詐欺罪で東京地方裁判所に告訴される。
 1951年12月5日、神奈川県三浦郡葉山町の自宅にて脳溢血で72歳にて死去。

 小桜葉子。東京都出身の女優。日本における美容体操の草分け。
父は男爵岩倉具顕。母は松竹の大部屋女優の青木しのぶ(江間光子、光括)で、その父親の江間俊一は弁護士で政治家で江間式心身鍛練法の開発者。東伏見宮依仁親王妃周子の姪にあたる。ひとつ年下の妹の昌子も小桜昌子の名で松竹の女優となった。
 1925年に小笠原プロダクションに子役として入り、母のペンネームだった小桜葉子を芸名にする。1926年5月、松竹蒲田に入り、子役(令嬢の子供)として主演作もあり大活躍したが、数年で娘らしくなり人気が落ちた。ちょうどその頃、上原謙が松竹へ入りすぐにNo.1の二枚目スターとなった。上原は大人気のスター桑野通子とのロマンスが話題となっていたが、上原を射止めたのは小桜であった。1936年10月、上原と結婚。1937年4月に長男(加山雄三)を出産。
 1952年、映画「お茶漬の味」に特別出演している(結婚後のため、上原葉子とクレジットされている)。
 60年代に息子の加山雄三が映画で大活躍している頃、小桜式美容体操の先生として大活躍。若々しく張りのあるルックスは加山の姉にしか見えなかった。1970年5月12日死去。享年52。孫は俳優の山下徹大、タレントの梓真悠子、女優の池端えみ。弟の孫が女優の喜多嶋舞。