水戸徳川家→越前松平家

TG01:徳川家康  徳川家康 ― 結城秀康 MT51:結城秀康


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結城秀康 松平忠昌

 越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。下総結城氏第18代当主。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康となった。その後、結城晴朝の養子となり結城の通称で呼ばれるようになった。通説では越前国を領して以降は松平姓を称したとされるが、批判もある。
 天正2年(1574年)2月8日、遠江国敷知郡宇布見村(現・静岡県浜松市西区)の今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船,兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村源左衛門正吉の屋敷で生まれた。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
 秀康は双子で誕生したとされ、生母・永見吉英の娘・於古茶の実家である知立神社に伝来する『知立明神古文書』では、弟は知立神社の神職となり永見貞愛を称し31歳まで生きたとされる。
 秀康は、本多重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。築山殿が承認しない子供であったため(正室の権限)、家康もまた認知できなかった。家康の子として認知されたのは、築山殿が死去してからである。
 家康嫡男で兄・松平信康が切腹させられるあとは、次男である結城秀康が本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであったが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、結城秀康は秀吉のもとへ養子(秀吉側の認識は人質)として送られ、家康の次の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。
 大坂へは、傅役の小栗大六(小栗重国)と小姓の石川勝千代(石川康勝),本多仙千代(本多成重)がつき従う。羽柴秀吉の養子として羽柴三河守秀康と名乗り、河内国に1万石を与えられた。天正15年(1587年)、14歳のとき、九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。また4月までの時点で左近衛権少将・三河守に任官し、「三河少将」と呼ばれた。
 天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。そのため他の養子同様に、秀康も他家に出される。秀吉は、関東平定の功労者である家康へ国替え240万石と更なる加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子とすることを考えついた。結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家であった。秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪(江戸重通の娘・鶴姫)と婚姻して結城氏の家督および結城領10万1,000石を継いだ。慶長2年(1597年)9月28日には参議に任官し、公卿となったことで「結城宰相」などと呼ばれるようになった。慶長5年(1600年)6月まで伏見城を守備したが、同年6月8日、伏見を発って関東に向かい、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。石田三成が挙兵すると、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。
 同年11月、秀康は越前国北荘68万石余に加増移封された。結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なくなく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能したもので、その結果、結城秀康は自らの権力における旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。慶長6年(1601年)7月、北庄に入部した。
 慶長10年(1605年)、権中納言へ昇進。慶長11年(1606年)9月21日には伏見城の留守居を命じられるが、病を得て職務を全うできなくなったため、慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去した。享年34。『当代記』に死因は梅毒だったとされる。また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。なお、曲直瀬玄朔の『医学天正記』では、他の難病にもとりつかれていたようである。始めは結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺で火葬されたが、徳川家,松平家が帰依していた浄土宗による葬儀でなかったことを家康が嘆いたため、知恩院の満誉上人を招いて新たに浄土院(のちに運正寺と改称)を造り、ここに改葬して浄土宗での戒名を授与された。

 慶長2年12月14日(1598年1月21日)、結城秀康の次男として大坂にて誕生した。
 5歳の頃より秀康から永見吉次(毛受忠左衛門)、狛孝澄らの家臣を附属された。慶長12年(1607年)、祖父の徳川家康、叔父の徳川秀忠に謁見し、秀忠の側近くで養育された。叔父にあたる徳川頼房と同じく、慶長12年(1607年)に家康側室の英勝院の猶子となり、同年11月、上総姉ヶ崎藩1万石を与えられる。
 武勇に優れた血気盛んな性格で、大坂冬の陣の際は徳川秀忠の側で随行した。翌年の慶長20年(1615年)が近づく頃、徳川幕府と大坂の豊臣氏との最終対決が近づく気配を感じると、「年齢が若いために出陣許可が下りない」可能性を考慮し、直前の正月に急いで元服を済ませ、大人として扱われることを望んだ。望み通り、秀忠より偏諱を賜って伊予守忠昌と名乗って元服し、1月8日従五位下侍従に叙任した。2月には従四位下となる。出陣の許可を得ると、直後の夏の陣では他の兄弟と共に、兄の忠直軍の一角を占めて出陣した。夏の陣の際は、大坂八町の一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている。この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。
 この大坂の役の活躍により、同年末に常陸国下妻藩主であった頼房の水戸転封の跡、下妻藩3万石へ加増移封された。さらに翌年の元和2年(1616年)には松平忠輝改易の跡、信濃国松代藩12万石へ、元和4年(1618年)には越後国高田藩25万石へと加増移封されている。
 元和9年(1623年)、2代将軍・秀忠と仲が悪く、素行にも粗暴な一面があったなどとされる兄・忠直が「不行跡」を理由に配流処分となった。その後幕命により、弟である忠昌が藩領のうち、越前北荘(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする「武辺者の家臣105騎」(幕府の命により忠直家臣団より幕府が選抜した)を継承し、高田から随従の300騎を併せて新たに福井藩の家臣団を形成した。のち仙千代には新たに越後高田に26万石が与えられた。寛永3年(1626年)8月19日に正四位下参議となる。
 寛永11年(1634年)、3代将軍・徳川家光が大軍を率いて上洛した際、忠昌も上洛した。同年、領地朱印状を拝領し、それによれば同年8月時点での所領は50万5280石である。のち、寛永14年(1637年)、弟の直良の越前木本藩から越前勝山藩への移転に伴い、幕府より木本藩2万5000石の旧領のうち2万石を加増される。正保元年(1644年)には、同じく直良が勝山3万5000石から越前大野藩5万石へ移った後の勝山3万5000石を幕府より「預領」として預けられた。
 寛永14年(1637年)の島原の乱には出兵の命は下らず、見舞いと称する藩士12人を派遣した。寛永20年(1643年)異国船改めのため三国湊に番所を建てる。正保2年(1645年)8月1日、江戸の霊岸島の中屋敷にて卒去した。葬儀の後、家臣7名が殉死(追腹)している。墓地は永平寺。また子の光通が開基となった大安禅寺にも、藩祖で父の結城秀康らと並んで墓がある。
 忠昌の死後、福井藩は家督相続問題などから次第に所領を減封されていった。また忠昌の血筋は宗昌の代で断絶した。

松平昌勝 松平光通

 寛永13年(1636年)3月11日、江戸にて生まれた。寛永13年5月7日(1636年6月10日)生まれの光通より数ヶ月だが兄に相当するが、母の身分が低かったために世子(嫡男)となれず、福井藩の家督は光通が相続することになる。忠昌の死後、その遺言により正保2年(1645年)に5万石を分与され、慶安1年(1648年)に芝原と呼ばれていた地を松岡と改め、松岡藩を立藩した。同年12月31日、従五位下・中務大輔に叙任。寛文3年(1663年)12月28日には従四位下となった。
 その後も本家の家督を継げなかったことに不満を持ち、度々本藩に介入し、後に起こる福井藩の家督騒動の一因を作ることとなった。光通の死後はさらに弟の昌親が相続し、昌勝が福井本藩の藩主になることは最後までなかった。ちなみに子の綱昌,宗昌,吉邦らはいずれも福井藩主となっている。
 元禄6年(1693年)7月27日に江戸浅草の屋敷にて58歳で死去し、後を3男の昌平(後の宗昌)が継いだ。墓所は東京都品川区南品川の天竜寺または福井県松岡の天竜寺。

 正保2年(1645年)10月、父の死去により10歳の幼少で後を継ぐ。このとき父の遺言に従い、庶兄の松平昌勝に5万石を分与して松岡藩を、庶弟の松平昌親に2万5000石を分与して吉江藩をそれぞれ立藩させた。後継したとはいえ幼少であり、江戸在府のままであった。慶安元年(1648年)12月21日に元服。左近衛権少将に任じられ、越前守を名乗った。 越前への初入国は承応2年(1653年)6月10日となる。幼少のため、しばらくは本多富正をはじめとする結城秀康以来の宿老の補佐を受けたが、それら宿老が老齢のために相次いで死去すると、後継となる家臣団を率い、親政を開始する。光通は政治的に優秀で、山野海川に関する法整備をはじめ、家中についてや武道,武具について、税制についての様々な法を制定、もしくは改正して藩政の地盤を固めた。また、藩初代秀康以降、これまで尚武の気質の強かった福井藩であったが、光通は朱子学者の伊藤坦庵を京都より招聘し、儒学を中心とした文教を奨励して学問・文化方面でも藩を発展させようとした。光通自身が教養人だったこともあり、大安寺や新田義貞戦没の地に石碑を築き、平泉寺における楠木正成墓石の修補を行うなどして、士気の高揚と勤王の奨励を目指した。また越前松平家の菩提所として大安禅寺を創建している。
 一方、相次ぐ改革に加えて、領内をたびたび襲った天災などもあり、藩財政は極度に悪化し、福井藩は絶えず金策に追われることになる。財政再建のために寛文元年(1661年)、幕府の許しを得て藩札を発行する。これは、一般的には「日本初の藩札」と言われており、福井寛文札と呼ばれた。寛文9年(1669年)4月には領内の勝美村で大火が発生し、城下と城郭の大半、天守などが焼失した。このため、幕府から5万両を借りて寛文12年(1672年)に城郭を再建したが、天守は再建されなかった。
 光通の妻は越後高田藩主・松平光長(従兄)の娘・国姫であった。越後高田藩や光長の母親である勝姫からの強い要請もあり、婚約は早かったが、越後高田藩の福井藩に対する干渉を危険視した幕府や、福井藩内からの防御的圧力があり、実際の婚姻は遅れた。勝姫は姉である千姫に依頼し幕府に対して圧力をかけ、寛文5年(1655年)にようやく正式に結婚が成立した。婚姻後の光通と国姫の仲は良かったが、二人の間には女児2人しか生まれず、跡継ぎとなるべき男児ができなかった。ところが光通には、国姫以外の女性(御三の方・片桐氏)との間に権蔵(のちの越後糸魚川藩祖の松平直堅)が存在した。光通としては、実の子に家督を継がせようという考えもあったようである。
 ところが、国姫の祖母である勝姫は猛反対。光通に対して福井藩の跡継ぎを国姫との間に生まれるはずの男児にするように強要し起請文まで取るに至った。このため、光通と国姫の仲も急速に悪化し、35歳にもなった国姫自身は、もはや男児を産めないことを苦にし、寛文11年(1671年)に祖母や父の期待に添えないことを侘びて自殺した。
 国姫の死から間もなく、権蔵(直堅)は福井から出奔した。これは、勝姫とその父・光長が権蔵の命を狙い始めたためであるとされている。権蔵は光通の叔父である越前大野藩主・松平直良とその家老・津田氏を頼り、のち幕府から越前家とは別に1万俵を与えられ、数代後より越後糸魚川藩1万石となる。
 親族からの圧力、妻の死や息子の出奔など、家庭的,政治的に苦難が続く中、光通は遂に精神的に耐えられなくなり、延宝2年(1674年)3月24日、庶弟の松平昌親に家督を譲るようにとの遺書を残して自殺した。享年39歳。墓所は福井市の大安禅寺。1877年には東京都品川区南品川海晏寺へ改葬。
 跡継ぎ問題、嫁の実家や姑からの圧力から自害にまで追いやられた藩主であり、光通を取り巻く混乱とその死去は、その後の福井藩に減封,改易などの影響をもたらした。

松平昌親(昌明,吉品) 松平綱昌

 正保2年(1645年)、父である福井藩3代藩主・松平忠昌の死去時の遺言により、第4代藩主となった次兄の松平光通から2万5000石を分与されて、吉江藩を立藩した。同時に長兄の昌勝には松岡藩5万石が与えられた。慶安4年(1651年)12月29日、元服し従五位下・兵部大輔に叙任した。吉江藩の歴史は昌明1代で終わる。のち昌明が福井本藩の藩主に就任すると、吉江の地は諸税が免除されたと伝わる。
 延宝2年(1674年)、福井藩主・光通が自殺した。後継者問題に対する外戚からの圧力に耐えかねたのが理由と言われている。光通は自殺する直前、「家督は昌親に譲るように」という遺言を残していたが、これが問題となり、家中を三分する家督争いが起こった。後継者候補として、光通には松平直堅という庶子がおり、また、昌親より上の兄弟である松平昌勝もいた。側室腹の庶子とは言えど、実子である直堅が本来は跡を継ぐはずであるが、この直堅の存在は、光通時代から主に外戚(正室の実家である越後高田藩)から問題視されており、また昌親の兄である昌勝も長幼の順から言えば昌親よりも後継にふさわしいと考えられた。光通があえて遺言したのには光通なりの思慮があったのだろうと思われるが、藩士50人ほどが結託し、前藩主の息子である直堅を擁することを意図して、集団で江戸への直堅の元へ、または幕府への訴えにと向かった。一方、昌親と昌勝を支持する藩士たちも藩主の座への野心を見せた。これに対して家老の芦田図書(依田康勝子孫)は、亡き光通の遺書を幕府に提出して、昌親の家督相続の正当性を訴えた。幕府はこれを認め、第5代藩主には昌親が就任することとなったのである。このとき吉江藩は廃藩となり、その所領は福井藩に併合された。また、福井藩主就任時に昌親と改名した。
 しかし藩内ではその後も昌親の家督相続に不満を抱く者が少なくなく、藩政に落ち着くところがなかった。このため昌親は在位わずか2年後の延宝4年(1676年)7月21日、家督を兄・昌勝の長男・綱昌に譲って隠居した。隠居時に名前を元の昌明に戻している。
 隠居から藩主再任の頃の昌親は昌明と名乗っていたが、後に5代将軍・綱吉から偏諱を拝領して吉品と改名している。第6代藩主となった綱昌は、藩政に上手く対応できず、綱昌の行動を幕府は咎め、「貞享の大法」「貞享の半知」と呼ばれる藩領半減などの様々なペナルティが与えられた。江戸城の詰間も外様の国持大名と同じ大広間に移された。
 昌明は綱昌時代に乱れた藩政の統率、および藩の規模縮小に伴う財政の再建を目指した。まず6月には2000人以上の家臣(奥女中含む)のリストラを断行し、さらに家老クラスから下級武士まで藩士の俸禄を半減した。また、藩札を刷新した上で新たに発行し、法令の整備などにも努めた。貞享4年(1687年)9月4日「御家御条目」、元禄4年(1691年)「御用諸式目」を制定した。元禄12年(1699年)、今立郡岩本に「紙会所」を置き、特産の越前和紙を藩の専売とした。しかし財政の不足は補えきれず、治世中に洪水が発生し領内が被害に見舞われ、また江戸城石垣修復の普請を命じられるなどの出費も重なり、領内に御用金を課すことも度々あった。藩札の再発行も行ったが、のち幕府により禁止された。次代の吉邦が相続する頃、藩財政は「御国反乱程之困窮」となっていた。
 昌明には嗣子が無く、御家騒動を回避するため、元禄3年(1690年)、長州藩の第2代藩主・毛利綱広の5男・松平昌方(毛利元重:祖母が結城秀康の娘の喜佐姫)を養子として家督を譲ろうとしたが、家臣団の反対により元禄12年(1699年)、昌方を「多病」を理由に離別し、兄・昌勝の6男・昌邦を養子とした。元禄9(1696年)12月5日、左近衛少将に任じられ、元禄15年(1702年)11月25日、幕府から葵の紋着用を再許可され、宝永元年(1704年)には将軍・綱吉から偏諱を拝領し、昌明から吉品と改名し、同時に養子の昌邦も吉邦となった。
 宝永5年(1708年)、福井藩主の別邸・御泉水屋敷(養浩館)を改築し、同時に西隣に新御泉水屋敷を建築、自らの隠居所とした。宝永7年(1710年)7月5日、家督を譲って隠居、福井藩邸を出て、吉江藩主時代からの江戸鳥越の抱屋敷に移った。8月5日には福井に帰国。正徳元年(1711年)9月12日、72歳で死去した。吉品の菩提寺である福井市足羽の高照山瑞源寺は元々、吉江藩領にあった。のちの福井藩相続に伴い、福井藩領の名勝足羽山山麓に移され、山腹に吉品と高照院の墓が残る。また福井城の御殿の一部が移築されて残っている。それまで福居と呼ばれていた町(城)名を福井と改名したのは、吉品の代のことである。

 寛文元年(1661年)5月8日、江戸に生まれる。延宝2年(1674年)7月3日(5月12日とも)、先代藩主・松平昌親の養嗣子となる。これは昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内においても昌親に対する反発があったため、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として藩内の鎮静化を図った処置であると推測されている。延宝3年(1675年)年11月23日、元服し従四位下侍従に叙任。越前守と名乗ったのち、延宝4年(1676年)7月21日、昌親から家督を譲られて藩主となった。延宝8年(1680年)8月18日、左近衛少将に任じられた。
 しかし、綱昌は延宝9年(1681年)3月に理由も無く側近を殺害するなど、次第に奇怪な行動をとり始めたと伝わる。治世においても飢饉に上手く対応できず、藩内に多数の餓死者を出した。貞享2年(1685年)には江戸城登城をも怠ったため、貞享3年(1686年)閏3月6日、遂に幕府は綱昌の狂気を理由に蟄居を申し渡し、綱昌は江戸鳥越の屋敷へ身柄を移された。しかし、徳川家康の次男・結城秀康の子孫である御家門の越前松平家を取り潰すわけにもいかず、幕府は前藩主・昌親に知行半減(25万石)というペナルティを与えた上で存続を許した。この際、附家老である府中本多家も知行半減(4万石→2万石)とされた。
 綱昌はその後、江戸鳥越の屋敷に蟄居となり、幕府から給金を支給されながら元禄12年(1699年)2月11日、39歳で死去した。
 綱昌が奇怪な行動を取った理由は不明である。そもそも前藩主の相続時から続く藩内の対立があり、その影響で前藩主である昌親の藩内権力が依然として保持されており、綱昌の思い通りに藩政が動かせなかったためとも言われている。また、昌親(派)も次第に綱昌(およびその父親である昌勝)を疎ましく思い始め、その失脚を策動していたとも言われている。
 この間に福井藩は幕府から越前国絵図の編纂を命じられ、『越前地理指南』『越前地理梗概』『越前地理便覧』の3冊を完成させている。また、儒者の野路汝謙に藩の史料の整理を命じてこれをまとめ、幕府に呈上した。

松平昌方 松平昌邦(吉邦)
 幼名は長吉。元禄3年(1690年)7月5日、父・綱広が結城秀康の外孫であった縁で、跡継ぎのいなかった松平吉品(昌明)の養子となり、松平昌盛のちに松平昌方と名乗る。同5年(1692年)2月15日、従四位下・大監物に叙任。同12年(1699年)7月、多病との理由により養子縁組を解消し実家に戻る。5月末に離縁し、6月1日に毛利復姓とも。離籍後は通称を監物とし、宍戸権之助を付役として江戸青山の長州藩江戸藩邸中屋敷や萩城下で過ごした。宝永3年(1706年)死去。享年30。

 元禄14年(1701年)3月5日、先代藩主の松平吉品の養嗣子となり、同年12月18日、従四位下大炊頭に叙任、昌邦と名を改めた。宝永元年(1704年)10月28日、養父が江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗より越前家の慣例通りに一字を拝領し吉品と改名した際、同じく一字を拝領し、「吉邦」と改名、同年12月11日、侍従に任じられた。宝永7年(1710年)7月5日、吉品の隠居により跡を継いだ。正徳4年(1714年)12月18日、左近衛少将に任じられ、伊予守を名乗る。
 藩政においては財政の再建に力を入れた。正徳元年(1711年)11月、藩内に倹約令を出し、勘定奉行の田中条左衛門を罷免して人事を一新し、さらに経費節減や倹約を推進し民政にも尽力した。特に民政では領民に対して善政を敷いて大いに慕われ、倹約においてもその方針が時の将軍・徳川吉宗の政策と一致し、吉宗から大いに賞賛されたと言われている。享保5年(1720年)からは越前国内の天領のうち10万石余が預けられること(預所)となった。預所は時折の増減を経ながら、廃藩まで預けられた。

 享保年間に、藩の祐筆の松波正有の編纂による『帰鴈記』が完成した。これは越前国内の名所,城跡,社寺(跡),山川などの地誌である。また吉邦は父の昌勝に似て大の相撲好きであったと伝わり、相撲に関しての多くの逸話が残っている。正徳4年(1714年)7月、兵法家・軍学者の大道寺友山を客分として召抱えた。

 享保6年(1721年)12月4日、福井にて41歳で死去し、跡を兄の松平宗昌(昌平)が継いだ。墓所は福井県福井市足羽の運正寺,東京都品川区南品川海晏寺。

松平宗矩 松平重昌

 正徳5年(1715年)3月26日、陸奥国白河新田藩主・松平知清の次男として誕生。享保6年(1721年)12月11日、8代将軍・徳川吉宗の指示により、福井藩9代藩主・松平宗昌の養子となり、先々代藩主・松平吉邦の一人娘であった勝姫を正室とした。享保9年(1724年)、宗昌の死去により家督を継いだ。享保11年(1726年)12月11日に元服し、従四位下侍従に叙任、同時に養父・宗昌と同様に、将軍・吉宗から偏諱を受けて宗矩、通称を兵部大輔と名乗った。享保18年(1733年)12月18日には左近衛権少将に任じられた。
 災害が相次いでますます悪化する藩財政を再建するために倹約令を出し、藩士のチェックのために勝手吟味役を設けて厳しく推奨した。借米や御用金の申し付けを行うなど財政に苦労したが、その一方で貧困や災害に苦しむ困窮者を対象に救米の貸与・提供を行うなど善政に尽くしたと言われている。
 複数回の大雪や大洪水に見舞われたこともあり、財政が窮乏する中、藩札に対する不安から取り付け騒ぎも何度か起こり、信用回復のために担当者を処分している。殖産にも力を入れ、三国湊の整備や、漆の増産を目指した苗木の植林も行っている。
 こうした諸政策が評価されてか、越前国内の幕府領が全て福井藩の預所となったが、一方で寛保3年(1743年)8月に日光普請手伝いを拝命し、これもまた財政に負担となった。日光修復の栄誉を記念するため、藩士に命じて装飾などの絵図面を描かせている。
 寛延2年(1749年)10月21日に江戸にて死去した。享年35。延享4年(1747年)に養子縁組した一橋家徳川宗尹(吉宗の4男)の長男・於義丸(重昌)が跡を継いだ。「徳正君御出語」においては、領民,家臣から慕われた名君であると記されている。

 寛保3年(1743年)8月22日、一橋徳川家の当主・徳川宗尹の長男として江戸で誕生した。同年9月1日、8代将軍・徳川吉宗により、父・宗尹と同じ幼名「小五郎」を授けられる。延享4年(1747年)6月12日、幕命により福井藩藩主・松平宗矩の養子とされ、於義丸と改名する(於義丸は、藩祖・結城秀康の幼名である)。
 寛延2年(1749年)10月21日に宗矩が没したため、同年12月7日に襲封。宝暦5年(1755年)6月13日に元服し、家重から偏諱を授けられ重昌と名乗り、従四位上・左近衛権少将兼越前守に叙任される。宝暦8年(1758年)3月18日、16歳で死去した。
 尾張藩藩主・徳川宗勝の7女・品姫(瓊樹院)と縁組していたが、婚姻前に重昌が死去した。品姫は、のち松平頼前に嫁いだ。
 若年で相続し早世したため、治世時の業績は直裁ではなく、おおよそ家臣らの手によるものである。相続前に幕府からの預所が全て幕府直轄となった。これは藩としては減収となる。さらに地域を天候不順が襲い、領民の逃散が多く、藩は困窮する領民に米を貸し出している。また、洪水や津波,凶作などの天候不順に見舞われている。
 宝暦6年(1756年)中には「他国商為替銀貸付会所」を設立している。宝暦6年1月22日、飛騨郡代支配下の幕府領丹生郡本保村にて本保騒動が起こり、26日には鯖江藩と共同で鎮圧のために出兵している。大きな騒動は収まったが、その後も越前国内は不穏な動きが相次いだ。