TG01:徳川家康 | 徳川家康 ― 結城秀康 | MT51:結城秀康 |
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結城秀康 | 松平忠昌 |
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越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。下総結城氏第18代当主。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康となった。その後、結城晴朝の養子となり結城の通称で呼ばれるようになった。通説では越前国を領して以降は松平姓を称したとされるが、批判もある。 |
慶長2年12月14日(1598年1月21日)、結城秀康の次男として大坂にて誕生した。 |
松平昌勝 | 松平光通 |
寛永13年(1636年)3月11日、江戸にて生まれた。寛永13年5月7日(1636年6月10日)生まれの光通より数ヶ月だが兄に相当するが、母の身分が低かったために世子(嫡男)となれず、福井藩の家督は光通が相続することになる。忠昌の死後、その遺言により正保2年(1645年)に5万石を分与され、慶安1年(1648年)に芝原と呼ばれていた地を松岡と改め、松岡藩を立藩した。同年12月31日、従五位下・中務大輔に叙任。寛文3年(1663年)12月28日には従四位下となった。 |
正保2年(1645年)10月、父の死去により10歳の幼少で後を継ぐ。このとき父の遺言に従い、庶兄の松平昌勝に5万石を分与して松岡藩を、庶弟の松平昌親に2万5000石を分与して吉江藩をそれぞれ立藩させた。後継したとはいえ幼少であり、江戸在府のままであった。慶安元年(1648年)12月21日に元服。左近衛権少将に任じられ、越前守を名乗った。 越前への初入国は承応2年(1653年)6月10日となる。幼少のため、しばらくは本多富正をはじめとする結城秀康以来の宿老の補佐を受けたが、それら宿老が老齢のために相次いで死去すると、後継となる家臣団を率い、親政を開始する。光通は政治的に優秀で、山野海川に関する法整備をはじめ、家中についてや武道,武具について、税制についての様々な法を制定、もしくは改正して藩政の地盤を固めた。また、藩初代秀康以降、これまで尚武の気質の強かった福井藩であったが、光通は朱子学者の伊藤坦庵を京都より招聘し、儒学を中心とした文教を奨励して学問・文化方面でも藩を発展させようとした。光通自身が教養人だったこともあり、大安寺や新田義貞戦没の地に石碑を築き、平泉寺における楠木正成墓石の修補を行うなどして、士気の高揚と勤王の奨励を目指した。また越前松平家の菩提所として大安禅寺を創建している。 |
松平昌親(昌明,吉品) | 松平綱昌 |
正保2年(1645年)、父である福井藩3代藩主・松平忠昌の死去時の遺言により、第4代藩主となった次兄の松平光通から2万5000石を分与されて、吉江藩を立藩した。同時に長兄の昌勝には松岡藩5万石が与えられた。慶安4年(1651年)12月29日、元服し従五位下・兵部大輔に叙任した。吉江藩の歴史は昌明1代で終わる。のち昌明が福井本藩の藩主に就任すると、吉江の地は諸税が免除されたと伝わる。 |
寛文元年(1661年)5月8日、江戸に生まれる。延宝2年(1674年)7月3日(5月12日とも)、先代藩主・松平昌親の養嗣子となる。これは昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内においても昌親に対する反発があったため、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として藩内の鎮静化を図った処置であると推測されている。延宝3年(1675年)年11月23日、元服し従四位下侍従に叙任。越前守と名乗ったのち、延宝4年(1676年)7月21日、昌親から家督を譲られて藩主となった。延宝8年(1680年)8月18日、左近衛少将に任じられた。 |
松平昌方 | 松平昌邦(吉邦) |
幼名は長吉。元禄3年(1690年)7月5日、父・綱広が結城秀康の外孫であった縁で、跡継ぎのいなかった松平吉品(昌明)の養子となり、松平昌盛のちに松平昌方と名乗る。同5年(1692年)2月15日、従四位下・大監物に叙任。同12年(1699年)7月、多病との理由により養子縁組を解消し実家に戻る。5月末に離縁し、6月1日に毛利復姓とも。離籍後は通称を監物とし、宍戸権之助を付役として江戸青山の長州藩江戸藩邸中屋敷や萩城下で過ごした。宝永3年(1706年)死去。享年30。 |
元禄14年(1701年)3月5日、先代藩主の松平吉品の養嗣子となり、同年12月18日、従四位下大炊頭に叙任、昌邦と名を改めた。宝永元年(1704年)10月28日、養父が江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗より越前家の慣例通りに一字を拝領し吉品と改名した際、同じく一字を拝領し、「吉邦」と改名、同年12月11日、侍従に任じられた。宝永7年(1710年)7月5日、吉品の隠居により跡を継いだ。正徳4年(1714年)12月18日、左近衛少将に任じられ、伊予守を名乗る。 享保年間に、藩の祐筆の松波正有の編纂による『帰鴈記』が完成した。これは越前国内の名所,城跡,社寺(跡),山川などの地誌である。また吉邦は父の昌勝に似て大の相撲好きであったと伝わり、相撲に関しての多くの逸話が残っている。正徳4年(1714年)7月、兵法家・軍学者の大道寺友山を客分として召抱えた。 享保6年(1721年)12月4日、福井にて41歳で死去し、跡を兄の松平宗昌(昌平)が継いだ。墓所は福井県福井市足羽の運正寺,東京都品川区南品川海晏寺。 |
松平宗矩 | 松平重昌 |
正徳5年(1715年)3月26日、陸奥国白河新田藩主・松平知清の次男として誕生。享保6年(1721年)12月11日、8代将軍・徳川吉宗の指示により、福井藩9代藩主・松平宗昌の養子となり、先々代藩主・松平吉邦の一人娘であった勝姫を正室とした。享保9年(1724年)、宗昌の死去により家督を継いだ。享保11年(1726年)12月11日に元服し、従四位下侍従に叙任、同時に養父・宗昌と同様に、将軍・吉宗から偏諱を受けて宗矩、通称を兵部大輔と名乗った。享保18年(1733年)12月18日には左近衛権少将に任じられた。 |
寛保3年(1743年)8月22日、一橋徳川家の当主・徳川宗尹の長男として江戸で誕生した。同年9月1日、8代将軍・徳川吉宗により、父・宗尹と同じ幼名「小五郎」を授けられる。延享4年(1747年)6月12日、幕命により福井藩藩主・松平宗矩の養子とされ、於義丸と改名する(於義丸は、藩祖・結城秀康の幼名である)。 |