水戸徳川家 → 越前松平家 → 雲州松平家

MT51:結城秀康  徳川家康 ― 結城秀康 ― 松平直政 MT55:松平直政

 

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松平直政 松平綱隆

 慶長6年(1601年)8月5日、近江国伊香郡河内で生まれたため、河内丸と名付けられた(のち国丸)。慶長10年(1605年)、家臣の朝日重政に預けられて養育された。慶長12年(1607年)、父・秀康が病死すると、異母兄・松平忠直の庇護を受ける。慶長16年(1611年)4月17日、京都二条城で祖父・徳川家康と謁見し、兄・忠直から「直」をもらって出羽直政と名乗るようになった。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出陣するが、生母の身分が低いことから部屋住みの身分にあった直政には軍資金が無かった。このとき、忠臣の神谷兵庫なる人物が、西本願寺から2,000両もの大金を借りてきてくれたおかげで、出陣したと言われている。冬の陣では豊臣氏の名将・真田信繁(幸村)が守る真田丸にて戦った。翌年の大坂夏の陣にも出陣し、兄・忠直に従って活躍した。このとき、忠直軍が敵将・真田信繁をはじめとする多くの敵将兵の首を獲り、大いなる戦功を挙げている。このときの逸話として、直政の家臣・武藤太兵衛が直政の陰嚢を握り、「人は怖気づいた時は縮むものですが、殿のは縮んでおりません」と述べたといわれている。
 大坂の役後、その戦功を祖父・家康から褒め称えられ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられた。兄・忠直も直政の活躍を賞賛し、自身の領内に1万石の所領を与えている。元和2年(1616年)5月6日には、幕府から上総姉崎に1万石の領土と同年6月には従五位下出羽守に叙任され、正式な大名となった。元和9年(1623年)、兄の忠直が乱行や叔父・徳川秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて豊後国に配流されると、直政は寛永元年(1624年)6月、越前大野5万石に加増移封され、同年8月6日に従四位下に昇叙(出羽守如元)。寛永3年(1626年)8月19日、侍従を兼任。寛永10年(1633年)4月22日には信濃松本7万石へ加増移封。翌年、松本城に月見櫓,辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行う。
 寛永15年(1638年)2月11日には出雲松江18万6,000石(及び隠岐1万4,000石を代理統治)へ加増移封され、国持大名となった。 こうして、松江藩主となったのである。その後、直政は領内のキリシタンを厳しく弾圧した。これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい。寛文3年(1663年)3月25日、幕命を受けて大沢基将とともに霊元天皇即位の賀使となり上洛した。同年5月26日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。しかし、同年11月26日に病となり、寛文6年(1666年)2月3日、江戸藩邸にて病死した。享年66。墓地は島根県松江市外中原町の月照寺。家督は長男・綱隆が継いだ。
 直政は口達者な人物で、「油口」と影では言われていたほどであったという。ちなみに、直政が家康からもらった打飼袋は月照寺にある。 

 雲州松平家2代。寛永8年(1631年)2月23日、出雲国松江藩初代藩主・松平直政の長男として誕生した。慶安4年(1652年)12月26日、元服する。江戸幕府4代将軍・徳川家綱より偏諱を授かって綱隆と名乗り、従四位下・信濃守に叙任する。寛文6年(1666年)2月、父が死去したため、同年4月10日に家督を継いだ。その時に次弟・近栄に3万石(広瀬藩)、三弟・隆政に1万石(母里藩)を分与している。同年12月28日、侍従に遷任する。信濃守を止め、出羽守を兼任する。
 ところが、藩内では先代・直政の治世末期から続く社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しを抱えていた。そこへ追い打ちをかけるように重臣・香西隆清の追放事件や大水害による被害が起きたため、藩政の混乱が隠し切れないものとなった。
 綱隆は、米・雑穀の移出禁止,酒造の禁止,藩札を発行するなどで事態を切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。しかも延宝元年(1673年)には、綱隆が神主の小野隆俊の美貌の妻に横恋慕するあまり、彼に無実の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。後に隆俊は死んだため、松平家はその怨霊を恐れて推恵社に彼を祀った。
 延宝3年(1675年)閏4月1日に急死した。享年45。跡を4男の綱周(綱近)が継いだ。あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたといわれている。綱隆の男系血筋は直応の代で断絶する。

松平綱近 松平宣維

 2代藩主・松平綱隆の4男として誕生した。延宝元年(1673年)12月21日に元服し、父同様に4代将軍・徳川家綱より偏諱を授かり綱周を名乗り、従四位下・甲斐守に叙任される。
 延宝3年(1675年)4月、父の死去により同年5月晦日に家督を継ぎ、諱を綱近に改める。同年6月4日に出羽守に遷任する。同年12月26日に侍従を兼任する。財政が極度に悪化していたため、大梶七兵衛による開拓や製鉄・産馬の奨励,倉崎権兵衛による楽山焼の創始など様々な改革を行なったが、あまり効果はなかった。このため、「祖父直政には劣なるべし」と史書で批判されている。
 晩年は眼病を患った上、息子の早世などもあって、弟の近憲(吉透)を養嗣子として迎えた上で家督を譲って宝永元年(1704年)5月29日に隠居し大内記に遷任した。しかし、翌宝永2年(1705年)9月6日に吉透が急死し、その息子である宣維が藩主となると、その後見をした。
 宝永6年(1709年)11月15日に51歳で死去した。

 元禄11年(1698年)5月18日、4代藩主・松平吉透の次男として誕生。宝永2年(1705年)10月26日、父の死去により家督を継ぐ。
 先々代の藩主である伯父の松平綱近が病身であったものの健在であったためにその後見を受けたが、宝永6年(1709年)に綱近が亡くなると、江戸幕府から国目付の派遣を受けた。正徳2年(1712年)に元服し、同4年(1714年)に初めてお国入りを果たした。
 治世では災害による天災から財政難に悩まされ、継室との婚礼資金ですら窮する有様で、婚礼を延期したほどである。このため宣維は藩政改革に取り組む。税制を定免制度に改め、ハゼ・ウルシ・クワ・コウゾ・茶・オタネニンジンの栽培やロウ・蝋燭製造にも着手した。また、出雲の沿岸一帯に異国船が多く出没したため、その打払いにも努めている。その他、たたら製鉄を統制下に置き、同業組織である「蹈鞴株」を作らせて先納銀を徴収した。藩札も発行したが、これが原因で後に札騒動が起こった。
 正徳2年(1712年)2月21日、6代将軍・徳川家宣より偏諱を授かり、直郷から宣維(宣澄とも)に改名、従四位下に叙位、侍従に任官する。また出羽守を兼任する。享保元年(1716年)11月13日、左近衛権少将に転任する。享保5年(1720年)6月13日、隠岐国の治政を幕府より委ねられ、以後、歴代藩主が相伝した。
 享保16年(1731年)8月27日に死去した。享年34。跡を長男・宗衍が継いだ。
 代々、雲州松平家の正室は、同じ越前松平家の一門や同じ御家門である久松松平家から迎えていた。しかし、宣維の2度の婚姻は異例なものであった。最初の正室である順姫(幻体院)は、久保田藩主・佐竹義処の娘で初めて御家門以外の外様大名から正室を迎えた。しかし、婚礼の翌年、享保6年(1721年)5月14日に幻体院は19歳の若さで亡くなった。
 ところが、幻体院の四十九日が終わった直後の7月4日、将軍・徳川吉宗の意向として邦永親王の王女・岩宮(光子)との婚姻を打診される。邦永親王が妹婿である吉宗に、23歳を迎えてしまっていた岩宮の婚姻の仲介を依頼したのである。松江藩からすれば、伏見宮家への経済的支援など新たな負担が懸念され、宣維は領内の不作などを理由として何とか婚儀を引き伸ばそうとした。しかし、この縁組は吉宗自らが媒酌人となる縁組であり、拒絶するのは不可能であった。しかも、松江藩が財政難の問題を持ち出せば、吉宗は伏見宮家に3千両を与えた上に様々な婚姻道具を贈るなど、松江藩の財政負担を軽くすることで婚姻の実施を迫った。このため、宣維も縁組を受諾した。享保9年(1724年)11月5日に江戸赤坂の松江藩上屋敷に入り、同月11日に婚礼が行われた。結果的には、岩宮が嫡男である幸千代(後の宗衍)を産んだことに加え、岩宮が将軍家の家族として遇されたことで朝廷との関係よりも徳川将軍家との関係が構築されたことに意義が見い出され、宣維の急死の際に幸千代はまだ3歳であったにもかかわらず、減封などの措置が取られることなく松江藩の継承が認められた。
 なお、その後、仙台藩伊達家から正室を迎えた松平治郷以降、一転して越前松平家から正室を迎えなくなる。宗衍が治郷に対し、「越前松平一門は大切な家なので、婚姻を避けるように」と命じたからであるという。これについては、後に治郷の息子・斉恒は正室に迎えた後で離縁に至った場合に一門間の内紛になるのを恐れたからであろう、と解説している。 

松平宗衍 松平治郷

 享保14年(1729年)5月28日、第5代藩主・松平宣維の長男として生まれる。享保16年(1731年)10月13日、父・宣維の死により家督を継いだ。この頃、松江藩は財政が悪化し藩政も不安定化していた。このため藩主となった翌、享保17年(1732年)にはイナゴの大群の襲来によって農作物が大被害を受け、19万石の所領で得ることができた石高はわずか12万石程度に過ぎず、しかも、家老たちは藩主が幼年であることをいいことに重税を強いたため、享保大一揆が発生してしまった。このため、成長した宗衍は延享4年(1747年)に家老による合議制を廃止し、自ら親政を行うこととしたのである。この間、寛保2年(1742年)12月11日、元服し、将軍・徳川吉宗の名の一字を賜わり、宗衍と名乗り、従四位下に叙位。侍従に任官。出羽守を兼任。また、財政改革のため、小田切尚足を登用した。
 尚足は財政再建のために特産品の専売化,泉府方の新設、そして義田政策を行うこととしたのである。ちなみに泉府方とは藩直属の金融機関による土地を抵当とする資金調達法である。専売化も泉府方政策もある程度の成功を収め、一時期は財政再建成功とまで思われた。ところが、改革の最中に天災が相次ぎ、さらに藩内で改革に対する反対派が力を盛り返したため、宝暦2年(1752年)に改革は停止されて尚足は失脚してしまった。宝暦5年(1755年)11月26日、左近衛権少将に転任。そして、宝暦10年(1760年)、幕命により比叡山山門の修築などを命じられて遂に藩財政は破綻状態となってしまった。このため、周囲からは「雲州様滅亡」とまで噂されたと言う。
 明和4年(1767年)11月27日、改革に失敗した失意から次男・治郷に家督を譲って隠居した。これは、改革失敗の責任を家臣団から問われての処置だったとも言われている。同日、出羽守から主計頭に転任。安永6年(1777年)11月28日、入道して南海を号す。天明2年(1782年)10月4日に死去。享年54。

 寛延4年2月14日(1751年3月11日)、松江藩の第6代藩主・松平宗衍の次男として生まれる。明和4年(1767年)、父の隠居により家督を継いだ。この頃、松江藩は財政が破綻しており、そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参・楮・櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政を再建を試みた。しかし、その反面で厳しい政策が行われ、これまでの借金を全て棒引き,藩札の使用禁止,厳しい倹約令,村役人などの特権行使の停止,年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約・引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われている。
 ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財をした。このため、藩の財政は再び一気に悪化した(改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされる)。
 文化3年3月11日(1806年4月29日)、家督を長男・斉恒に譲って隠居し、文政元年4月24日(1818年5月28日)に死去した。享年68。松江市殿町鎮座の松江神社に主祭神として祀られている。
 一説には財政を再建して裕福になったことを幕府から警戒されることを恐れて、あえて道楽者を演じていたという説もある(越前松平家系統は親藩の雄として尊重されると共に、過去の経緯から幕府からは常に警戒されていた)。治郷は茶人としての才能は一流であり、石州流を学んだ後に自ら不昧流を建てた。さらには『古今名物類従』や『瀬戸陶器濫觴』など、多くの茶器に関する著書を残している。ちなみに治郷によって築かれた茶室は菅田菴や塩見縄手の明々庵に現存する。この他に茶の湯の和菓子についても、治郷が茶人として活躍するに伴い、松江城下では銘品と呼ばれるようになる物が数多く生まれた。このため、松江地方では煎茶道が発達して、今でも湯のみがお猪口状の湯呑で飲む風習が残っている。治郷の収集した茶器の銘品,銘菓(山川・若草など)は「不昧公御好み」として現在にも伝えられ、治郷は、松江市が文化の街として評される礎をつくったといえる。
 武芸にも堪能で、松江藩の御流儀である不伝流居相(居合)を極め、不伝流に新たな工夫を加えた。また、金魚を愛し、部屋の天井に硝子を張り、肱枕で金魚を眺めたという。金魚の色変わりについて藩士を他国に派遣してその秘法を会得させたなどとも伝えられる。「出雲なんきん」がこの金魚と思われるが、島根県の天然記念物に指定されている。 

松平斉斎 松平定安

 出雲松江藩の第9代藩主。雲州松平家9代。文化12年(1815年)3月18日、第8代藩主・松平斉恒の長男として誕生。初名は直貴。文政5年(1822年)3月、父の死により同年5月23日に家督を継いだ。文政9年(1826年)2月25日、元服し、11代将軍・徳川家斉の偏諱を授かって斉貴に改名、藩主在任中はこの名を名乗る。従四位下に叙位、侍従に任官、出羽守を兼任する。幼年のため、家臣の塩見宅共と朝日重邦(朝日茂保の子)の後見を受けた。斉貴の代の松江藩は天保の大飢饉を始めとする天候不順や水害、さらには領内では火事など天災が相次ぐ多難の時代であった。ところが、斉貴は幕府に12万両もの献金を行った上、相撲や鷹狩などに興じて藩財政を極度に悪化させた。この間、天保9年(1836年)12月16日、左近衛権少将に転任する。また、弘化4年(1847年)9月23日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任する(出羽守は元のまま)。
 嘉永6年(1853年)9月5日、藩財政の悪化により、家臣団の間で斉貴廃立の動きが表面化して、斉貴は強制的に隠居させられた(主君押込)。そして、美作国津山藩から迎えた婿養子の定安を新たな当主として擁立された。隠居後は諱を斉斎に改め、文久3年(1863年)3月14日、49歳で死去した。 

 天保6年(1835年)4月8日、美作津山藩主・松平斉孝の7男として生まれる。嘉永6年(1853年)9月5日、第9代藩主の斉貴が暗愚であったために家臣団や縁戚から強制隠居させられた後を受けて、その婿養子として家督を継ぐこととなった。同年12月23日、将軍・徳川家定の名の一字を賜わり、定安と名乗り、侍従に任官、出羽守を兼任。幕末期の動乱の中では佐幕派として行動し、大坂や京都の警備を務めている。安政4年(1857年)4月28日、左近衛権少将に転任。
 藩政においては文久2年(1862年)、文武を奨励して西洋学校を創設する。また、フランス人を招いて砲術や西洋医術の導入、イギリスやフランスへの留学生派遣を積極的に行っている。さらにこの年にはアメリカから軍艦八雲丸を導入した。
 また、慶応2年(1866年)には女学校を創設している。それ以前の文久3年(1863年)には、軍備増強を目指して隠岐において17歳から50歳の民間における男子を徴兵して農兵隊を創設した。このように、定安は先見の明のある有能な藩主であったが、この隠岐における徴兵は地元農民の不満を買うこととなり、慶応4年(1868年)に隠岐で3,000人の民衆反乱が発生して郡代を追放し、隠岐に一時的に松江藩から独立した自治政権を作られるということとなった(これを隠岐騒動と言い、その後、定安は隠岐に軍を送って武力弾圧したが、これに薩摩藩と長州藩が反対したため、武力弾圧を取りやめることとなった)。
 慶応2年(1866年)に第2次長州征伐が起こると、定安は長州藩に敗れて国を追われた石見浜田藩主・松平武聰を保護している。その後、長州藩の軍勢が出雲国境にまで迫ってきたため、定安は慶応3年(1867年)に幕府に無断で長州藩と単独講和せざるを得なくなった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与している。このとき、八雲丸は能登沖において座礁沈没してしまった。明治2年(1869年)2月5日、出羽守から出雲守に遷任。同年6月17日、版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で免官された。
 明治5年(1872年)3月10日、隠居し、養子・直応に家督を譲る。明治10年(1877年)5月24日、直応の隠居により、再び家督を相続する。明治15年(1882年)11月17日、再び隠居し、3男・直亮に家督を譲る。12月1日に死去。享年48。

松平隆政 松平直員

 慶安元年(1648年)7月8日、松江藩藩主・松平直政の3男として生まれる。長兄・綱隆から偏諱を与えられて隆政と名乗る。寛文2年(1662年)12月27日、従五位下右近大夫となる。
 寛文6年(1666年)2月3日、父が亡くなり、同年4月10日、兄・綱隆が家督を継いだ。同月29日、綱隆から1万石を分知され、支藩・母里藩が成立した。当初は領地ではなく蔵米による支給だった。
 延宝元年(1673年)2月4日、26歳で死去した。菩提所は天徳寺。
 嗣子がなかったため、死に際し9歳の弟・直丘(直高)を末期養子とすることを願ったが認められず、所領は宗家に返還された。その後、綱隆が幕府に願い出たことにより、同年5月13日、直丘に家名存続が許された。 

 直員は、母里藩最悪の暗君として知られている。家督を継ぐと、年貢増徴を行って領民を苦しめ、遂には領民が逃散するという有様となる。さらに藩内の富豪から御立金と称する強制借金を行い、その返済期日である宝暦9年(1759年)8月4日に返済が不可能になると、家老の今村氏・前田氏らを切腹させて責任を取らせている。宝暦10年(1760年)には藩の施設を競売にかけた上、苗字帯刀の特権を金で売官するなど、その治世は目に余るものが多かった。しかもこれらで得た金銭は、自分の快楽に使われたのだから、藩財政は悪化の一途をたどった。 このため、同族の出雲広瀬藩主・松平近朝の娘・輝姫との縁談が進められていたものの、近朝は直員のこのような素行を知って破談に持ち込んでいる。
 明和2年(1765年)11月18日、家督を長男・直道に譲って隠居した。しかし、隠居後にはかつて直員が寵愛した家臣の平山弾右衛門による母里騒動が起こり、さらに直員自身も次男・直行を擁立しようとして直道の廃嫡を試みるなどして、藩政のさらなる混乱を招いた。明和5年(1768年)4月14日に死去。享年74。

松平直道 松平直興

 3代藩主・松平直員の長男。明和2年(1765年)、父・直員の隠居に伴い家督を継ぐ。従五位下大隅守に任官。 直道には世子がなかったため、父・直員は次男(直道の弟)の直行に家督を相続させようとしたが、直道はこれに反対し、家臣の平山弾右衛門に下げ渡したかつての愛妾が生んだ子・弥市を世子に据えようとしたことでお家騒動(母里騒動)が発生した。結局、明和3年(1766年)5月18日に事件が公に露見し、本藩の松江藩の介入により平山を斬首、その他関わった一味を追放処分とすることで収まり、世子は当初の直員の思惑通り直行に決定した。
 明和4年(1767年)隠居し、弟で養子の直行に家督を譲る。安永5年(1776年)、死去。 

 寛政12年(1800年)9月25日、第7代藩主・松平直方の長男として生まれる。文化14年(1817年)3月25日、父の隠居により家督を継いで第8代藩主となる。財政難を再建するため、黒川羽左衛門を登用して新田開発,灌漑用水の改良を行った。しかし実際は文学肌の藩主で、田川鳳郎に俳句を学び、小林一茶の『おらが春』にも彼の俳句が残されている。また、俳句で使った号は10を越えるものである。
 天保14年(1843年)9月13日、病気を理由に家督を娘婿で養子の松平直温に譲って隠居する。嘉永7年(1854年)閏7月24日に死去。享年55。母里藩中興の名君といわれている。 

松平直哉

 嘉永元年(1848年)2月29日、第9代藩主・松平直温の長男として生まれる。安政3年(1856年)に父が死去したため、家督を継いで第10代藩主となる。元治元年(1864年)の第1次長州征伐には消極的な立場をとった。後に江戸幕府に懇願して10万石の格式を許されている。
 明治2年(1869年)6月25日、版籍奉還により母里藩知事に任じられ、明治3年(1870年)の藩政改革では士族の帰農政策を推進したが失敗した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で藩知事を免職されて東京へ移ろうとしたが、領民の反対にあっている。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となった。
 明治30年(1897年)12月31日に死去。享年50。