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松平近栄 松平直義

 寛永9年(1632年)9月28日生まれ。明暦元年(1655年)11月7日、叔父の直良の娘婿となってその相続者と目されていたが、直良に実子の松平直明が生まれたため、寛文6年(1666年)に兄の松江藩主・松平綱隆から3万石を分与されて広瀬藩を立藩した。最初は蔵米による支給だったと言われている。
 親族である越後高田藩の家中にて御家騒動(越後騒動)が起こると、近栄は播磨国姫路主の松平直矩と共に騒動の調停役を務めたが、これがのちに将軍・徳川綱吉の勘気に触れることとなり閉門処分とされた上、1万5,000石に所領を減らされた。後に3万石に復帰した。
 藩政においては文武両道の名君で、領民のことをよく考えた善政を敷いたと言われている。元禄15年(1702年)3月23日、家督を長男・近時に譲って隠居し、享保2年(1717年)9月19日に86歳の長寿をもって死去。東京都渋谷区広尾の祥雲寺に墓所がある。

 美作国津山藩主・松平長孝(出雲広瀬藩第3代藩主・松平近朝の3男)の次男として誕生。母は藤堂高治の娘。初名は長善、のち近義,直義と改名。通称は主税。
 安永2年(1773年)、先代藩主・松平近貞の養子となり、同年のうちに家督を継いだ。米沢藩主・上杉治憲(鷹山)とも仲が良く、直義自身も才能に優れ、藩政で手腕を見せ、広瀬藩中興の君と言われた。また、文化人としての側面もあり、茶の湯に興味を持っては、同じく出雲松江藩主で親戚にあたる松平治郷(不昧)の門人となっていた。
 享和3年(1803年)10月22日に死去。享年50。生前、50歳を過ぎた近貞に(つまり直義に家督を譲った後に)実子の直寛が生まれ、直義はこれを養子として迎えており、死後はこの直寛が跡を継いでいる。

松平直諒 松平直巳

 第8代藩主・松平直寛の長男。母は内藤政韶の娘。有能で、俳諧・絵画・書道を嗜むなど多趣味な人物で、歴代藩主のほとんどが江戸に定府していたのに対して、直諒は嘉永3年(1850年)に父が死去して家督を継ぐと、ただちに国元に入って製糸業や製油業,和紙,鋳物,陶器,織物(広瀬絣)等の産業奨励、文化の奨励などを行い、領民に善政を敷いた名君であった。このため、領民も直諒を暖かく出迎えたという。文久元年(1861年)9月5日(異説として7月19日)に広瀬にて死去した。享年45。跡を弟の直巳が継いだ。
 直諒の文化政策の遺構は、現在も広瀬町に現存している。ちなみに直諒だけが歴代で唯一、広瀬町に墓所が存在する。

 8代藩主・松平直寛の11男として誕生した。母は側室の安達氏。文久元年(1861年)、兄・直諒の死去によりその養子として家督を継いだ。しかし兄のように有能ではなく、幕末期の政局に耐えられる人物ではなかったため、藩は混乱したという。しかし家老の岩崎広勤の手腕により、医学所や洋学所を設置して人材育成に努めた。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で広瀬藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で東京に移住した。明治9年(1876年)、養子の直平(松江藩主・松平定安の4男)に家督を譲る。大正6年(1917年)3月23日、86歳で死去した。