水戸徳川家→越前松平家(糸魚川松平家)

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松平直堅 松平直之

 松平光通(越前福井藩主)の長男で唯一の息子であったが、光通正室の国姫の子ではなく、妾腹の子であったため、当初は家督継承者から除外され、家老の永見氏に預けられて養育された。男子が他にいなかったため、光通をはじめとして彼を跡継ぎに推す声もあったが、国姫の実家である一族の高田藩主・松平光長や光長の母親の高田殿(第2代将軍・徳川秀忠の娘で松平忠直の妻)らの圧力を受けた直堅(権蔵)は、延宝元年(1673年)6月20日に江戸に出奔し、一族の越前大野藩主・松平直良を頼った。 直堅の母親は片桐氏の出である。直良の母親の父であり、大野藩家老・織田家の祖である津田信益(織田信長の従甥)は片桐氏の片桐且元に仕えていたことがある。その津田家との縁により片桐氏出身の権蔵の母はまず直良の母に仕え、また織田家の推薦もあって光通の側に仕えることとなった。この縁を頼ったものと思われる。松平直良は直堅を江戸藩邸に匿った。 幕府に対しては光通名義で、「公子(公式の子供)ではない」と届けが出された。その後、越前福井藩では同じく圧力を受けた光通と国姫両名の自殺などで混乱が続き、後継者問題が長く尾を引くこととなる。
 直堅は延宝3年(1675年)5月21日に将軍・徳川家綱と謁見し、12月26日従五位下・備中守に任じられ、賄料1万俵江戸定府の諸侯に列した。延宝7年(1679年)9月13日、赤坂に屋敷を拝領する。元禄10年(1697年)正月17日に死去。享年42。跡を長男の直知が継いだ。
 江戸への出奔の際、藩士の堀十兵衛が追跡捜索し、今庄宿あたりで追いつき、帰るよう説得したが聞き入れられず、のち堀は自刃した。

 天和2年(1682年)4月26日、出雲国広瀬藩主・松平近時の3男として誕生した。宝永元年(1704年)に福井松平家分家の松平直知が嗣子無くして早世したため、その妹(養女)である亀姫の婿養子となって家督を継いだ。
 宝永2年(1705年)1月に第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、3月に従五位下・信濃守に任じられた。宝永3年(1706年)には近江守となる。享保元年(1716年)8月には竹橋御門番を勤め、享保2年(1717年)2月16日には先祖の功績などを評価されて、知行地のない1万俵支給から糸魚川藩主(石高1万石)となった。しかし享保3年(1718年)10月6日に死去した。享年37(満36歳没)。跡を養嗣子の直好が継いだ。