MT51:結城秀康 | 徳川家康 ― 結城秀康 ― 松平重富 | MT52:松平重富 | ● |
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松平重富 | 松平治好 |
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寛延元年(1748年)11月6日、徳川宗尹(一橋宗尹)の3男として江戸一橋家屋敷で生まれる。第11代藩主で異母兄の重昌が宝暦8年(1758年)に死去したため、同年3月21日にその養子となって跡を継いだ。宝暦10年(1760年)に元服し、従四位上・左近衛権少将に叙任されるとともに、徳川家重から偏諱を賜って越前守重富と名乗る。 |
明和5年(1768年)3月25日、12代藩主・松平重富の長男として江戸にて誕生した。天明3年(1783年)9月25日、元服して従四位上・侍従に叙任、父・重富の従兄弟にあたる10代将軍・徳川家治から偏諱を受けて治好、また伊予守と名乗る。寛政11年(1799年)9月18日、父の隠居で家督を継ぐ。同年12月18日、左近衛権少将に任官する。享和2年(1802年)2月29日には越前守に名乗りを改め、文化8年(1811年)12月11日には左近衛権中将に任じられる。 |
松平斉承 | 松平斉善 |
文化8年(1811年)2月11日、第13代藩主・松平治好の3男として福井で生まれる。文政7(1824)年3月28日に元服。従四位上侍従に叙任。第11代将軍徳川家斉より一字を拝領し、伊予守斉承と名乗る。文政8年(1825年)に父が死去したため、文政9年(1826年)1月22日に家督を継いで藩主となる。同年12月16日、左近衛権少将に任じられ、同19日には越前守と名乗りを改めた。 |
文政3年(1820年)9月24日、11代将軍・徳川家斉の22男として江戸城にて誕生。天保6年(1835年)閏7月11日、松平斉承の養子となり、従四位上・少将上座に叙任する。8月28日に養父の跡を受けて家督を相続する。同年10月28日、正四位下・少将に叙任する。実父でもある将軍・家斉の偏諱を拝領し斉善、また越前守を名乗る。天保8年(1837年)8月25日には左近衛権中将に進む。生来病弱であったと伝わり、天保9年(1838年)4月に江戸を出立し、初入国を果たすが、その直後の7月27日に19歳で急死した。 |
松平慶永(春嶽) | 松平茂昭 |
江戸城内の田安屋敷に生まれる。中根雪江に教育を受け、天保9年(1838年)9月4日に松平斉善の養子となり、斉善が死去すると10月20日に家督を継承。11歳で福井藩主となる。12月11日に元服し、将軍・徳川家慶の偏諱を賜り、慶永と名乗る。中根や由利公正,橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。 |
糸魚川藩主・松平直春の4男。正室は蜂須賀斉裕の娘(鷹司標子の養女)賀代姫。 |
松平康荘 | 松平慶民 |
福井藩主・松平茂昭の次男として生まれる。母は、中臈八重(?~1871)。1884年(明治17年)1月24日、元服し、従五位に叙任する。慶應義塾に学ぶ。1月28日、政府からドイツ留学を許可される。同年2月16日、ドイツに向けて出発する。1887年(明治20年)3月11日、イギリス留学に変更することを許可され、サイレンセスター王立農学校 (Royal Agricultural College) に学ぶ。1890年(明治23年)7月26日、父の危篤のため帰国する。同年8月1日、家督を相続する。同年10月11日、イギリスに戻り、農芸を専攻して帰国後、福井城内に農事試験場(松平農試場)を設け、果樹・園芸に専念した。1892年(明治25年)1月29日、貴族院侯爵議員に就任。大日本農会会頭、帝国農会会長。日英博覧会 (1910年)にて『The Culture of Kaki』を出品している。 |
1882年、元福井藩主・松平慶永の3男として生まれる。慶永の養子として家督を継いだ松平康荘の養子に入るが、1893年に康荘の実子である康昌が誕生している。 |
松平永芳 | |
海軍軍人,陸上自衛官,神官。靖国神社第6代宮司(1978~92年)時代には、昭和殉難者(東京軍事裁判におけるA種戦犯容疑者、俗にA級戦犯)の合祀を実施したことで知られる。A級戦犯14柱の合祀についての松平の考えは、「国際法的に認められない東京裁判で戦犯とされ処刑された方々を、国内法によって戦死者と同じ扱いをすると、政府が公文書で通達しているから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖国神社は僭越にも祭神の人物評価を行って祀ったり祀らなかったりするのか、となる」であった。 永芳は、1970年代に遺族などが要望していた国家護持法案には断固反対の立場であった。靖国神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅持した。宮司退任に当たっては、「権力に迎合・屈伏したら、創建以来の純粋性が失われてしまう」ことを懸念し、「権力の圧力を蹴とばして、切りまくる勇気をもたないと不可である」ということを、次の宮司への一番の申し送りとしたと云う。また、国家護持反対の理由として永芳は、宮司就任後、明治以来の同神社の財政状況調査に着手し、同神社は当時の明治政府によって創建された一方、収入のほとんどが玉串料やお賽銭など社頭収入であり、実質的に民営である事実を強調した。 |