滝脇松平

MT29:松平乗清  松平親氏 ― 松平乗清 ― 松平信孝 MT30:松平信孝

リンク
松平信孝 松平信治

 明暦元年(1655年)、丹波国篠山藩2代藩主・松平典信の庶長子として誕生した。
 寛文11年(1671年)、駿府城代であった大叔父・松平重信の養子となり、延宝元年(1673年)の養父の死去により家督を継いだ。その後、小姓組番頭,御側衆,書院番頭,若年寄と栄進する。天和3年(1683年)の武鑑では「松平但馬守」が小姓組7番組番頭として記載されているのが見える。部下にあたる小頭は仙石久尚。
 加増も受けて元禄2年(1689年)には合計1万石の大名となって諸侯に列したことから、小島藩主となった。しかし翌元禄3年(1690年)10月17日に死去した。享年36。跡を甥で養子の信治が継いだ。

 元禄3年(1690年)に先代藩主・信孝が死去した際、母方で甥に当たることからその養嗣子となって跡を継いだ。宝永元年(1704年)、陣屋を小島に移した(小島陣屋)。このため、正式に小島藩となったのは、この信治の時代からである。また、奥詰,御小姓,大番頭となった。
 宝永2年(1705年)から麻畑沼(麻機沼)の新田開発を巡って知行地である瀬名の農村と請負人の商人らとの約90年に及ぶ新川事件が始まる。
 2人の男児をもうけたがいずれも早世したため、享保9年(1724年)3月29日に信治が52歳で死去した後、家督は従弟で養嗣子の信嵩が継いだ。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。

松平昌信 松平信義

 享保16年(1731年)、父の死により跡を継いだ。宝暦5年(1755年)、白隠慧鶴を龍津寺に招き維摩会を催した。宝暦9年(1759年)から新たな人材登用や新田開発,賦役強化,支出の削減を中心とした藩政改革を行なうが、年貢を増徴(生籾五分ずり)しようとしたため、明和元年(1764年)の大坂加番中に領内で百姓一揆が起こり、明和2年(1765年)に年貢軽減要求を受け入れ、改革の責任者(用人の石川儀右衛門と郡奉行の佐野勘右衛門)を追放するなどして百姓側の要求を受け入れた。こうして、改革は失敗に終わった。昌信は白隠に帰依し、歴代藩主の中で唯一、龍津寺に墓所がある。
 明和8年(1771年)6月27日、44歳で死去し、跡を娘婿で養嗣子の信義が継いだ。墓所は静岡市清水区の龍津寺。

 先代藩主・昌信の娘と結婚して婿養子となる。明和8年(1771年)6月27日に昌信が没したため、同年8月29日に跡を継いで藩主となる。
 治世中に用人や年寄本役になった倉橋格(寿平)は恋川春町の名で黄表紙を執筆していたが、その作品の一つに寛政の改革を批判するものがあったために寛政元年(1789年)に倉橋が松平定信に呼び出され、出頭しないまま辞職した事件が起こる。寛政12年(1800年)に隠居し、家督を長男の信圭に譲って隠居し、享和元年(1801年)に死去した。

松平信敏
 元治元年(1864年)、先代藩主の松平信書の死去により、その養嗣子となって跡を継ぐ。徳川家達が駿河府中に封ぜられたため、慶応4年(1868年)7月13日、上総桜井に移封となる。桜井の藩政では治水工事に尽力した。明治2年(1869年)、滝脇に改姓。明治4年(1871年)、廃藩置県により桜井藩は廃藩となる。明治17(1884年)年、子爵に列する。明治20年(1887年)、37歳で死去した。