滝脇松平

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平乗清 MT29:松平乗清

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松平乗清 松平乗高

 長享元年(1487年)惣領家の松平親忠が額田郡麻生城の天野氏を攻め滅ぼした際、後継の麻生城主に配されたという。後に名字の地である加茂郡松平郷にほど近い滝脇の地に移って家名とした。
 後年になると松平清康,広忠の横死と駿河国の今川氏勢力の伸長のために松平氏の三河における影響力は後退し、尾張国の織田氏に味方する諸勢力との摩擦を生じるようになった(三河忩劇)。弘治2年(1556年)1月、織田氏に味方する大給松平家との戦いで孫の正乗が戦死し、2か月後には嫡男の乗遠とともに乗清も戦死した(滝脇合戦)。菩提寺である長松院は、父子三代が戦死したためその追善のために建立されたという。

 弘治2年(1556年)、兄・正乗が大給松平家の松平親乗に敗れた。乗高は仇を取るため大給を責めて尾張国へ敗走させた。父の後継として徳川家康に仕え、永禄6年(1563年)三河一向一揆において水野忠重と共に蜂屋貞次と戦い武功を立てた。天正18年(1590年)の小田原征伐では仰せを承り小夜の中山において秀吉の饗応をし、事後に家康から茶碗二つを賜ったという。
 墓所は長松院。

 

 

松平乗次 松平正忠

 家康に仕えて関ヶ原の戦いにも供奉し、三河国に600石の知行を与えられた(先祖の地である滝脇村を含む)。のちに徳川家光付きとなって御書院番組頭を務め、上洛に随行して従五位下に叙せられ監物を称した。『寛政譜』で滝脇家として扱われているのは、乗次の家を婿養子として継いだ正貞の系統(松平監物乗道)、乗次の実子・乗久の系統(松平市郎右衛門乗武)の2家である。

 

 天正12年(1584年)6月20日に蟹江城合戦で戦死した松平四郎右衛門正忠は、滝脇松平家の一族とされる。
 『寛政譜』編纂時の松平岩次郎家の呈譜では、松平乗清の長男である親正(乗遠を次男とする)の子・清房が麻生を領し、清房の子が正忠であるという。ただし『寛永系図』では「松平四郎右衛門」の先祖は浅生(麻生)の人とするのみで詳細を記していない。『寛政譜』では長い按文が付されており、乗清の没年や葬地が滝脇松平家(松平監物家)の家譜と一致せず、松平監物家の家譜には親正,清房を記していないことをもとに、この系統を滝脇家としては扱っていない。

松平政次 松平正勝

 『寛永系図』では「松平四郎右衛門」の子として政次を載せるが、松平岩次郎家の呈譜によれば正忠には正秀,正勝,勝秀の3男があり、正秀の跡を勝秀(『寛政譜』ではこの人物を「政次」としている)が継いだという。政次(呈譜によれば勝秀あるいは正吉)の子・政重(呈譜によれば正遠)は御書院番を務めて1200石を領し、その系統が松平岩次郎正敏家である。
 なお、政次の2男の三郎兵衛は母方の祖父・村串三左衛門の遺跡を継いだが、その弟の正吉が家を継いで苗字を松平に復した(ただし『寛政譜』編纂時の呈譜では三左衛門の記載を欠き、正吉が別家を立てたように記されているという)。正吉の養子となった正晴は、養子を迎えては実家に帰すことを3度繰り返したため、それ以上の養子縁組を認めないとする沙汰が下り、家が絶えた。

 滝脇松平家祖の松平乗清の6世の孫で、父は松平正定。麻生松平家の当主の松平正忠(族祖父)の婿養子となって、その後を継いだ。
 徳川家康に仕え、書院番を務めた。慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣で青山忠俊に属し、明石全登と戦い戦死した。家臣の板倉藤兵衛が遺骸を背負って帰り、麻生阿弥陀寺に葬った。
 正勝には男子がいなかったため、松平家信・次男の重信が後を継ぎ、正勝の娘を妻とした。重信の養子の信孝の代に1万石を領して大名に列し、小島藩主となった。