清和源氏

G603:浦野重遠  源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 山田重満 G604:山田重満

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山田重忠 岡田重孝

 承暦3年(1079年)に美濃国で挙兵した源重宗は源義家に討たれ、一族は尾張国山田郡へ移り住み山田氏を称した。治承・寿永の乱で重忠の父の重満は源行家に味方し、墨俣川の戦いで討死している。源頼朝が鎌倉幕府をつくると重忠は尾張国山田庄(名古屋市北西部,瀬戸市,長久手町の一帯)の地頭に任じられた。重忠は後鳥羽上皇に仕えた。
 承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は水野左近(水野氏の祖)ら一族とともにこれに参じた。同年6月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な京方の大将の河内判官藤原秀澄はこれを取り上げなかった。
 京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠は300余騎で、押し寄せる武蔵国児玉党3000余騎を杭瀬川にて奮戦し児玉党100余騎を討ち取り、京へ退却した。
 京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山の山法師と勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。
 幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康,三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は藤原秀康,三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て篭もったが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山に落ちのび、ここで自害した。子の重継も幕府軍に捕らえられ殺された。

 織田氏の家臣。尾張星崎城主。はじめ織田信長に仕えたが、信長が死去するとその次男・織田信雄の家臣として仕えた。天正11年(1583年)、父の死去により家督を継いで当主となる。
 浅井長時,津川義冬らと共に三家老として信雄をよく補佐し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)からもその器量を認められていた。しかし秀吉との内通を信雄から疑われ、長時や義冬らと共に天正12年(1584年)3月6日に信雄によって伊勢長島城に呼び出されて殺された。この事件が小牧長久手の戦いのきっかけにもなった。

岡田善同

 江戸時代初期の美濃国の旗本。子である岡田善政とともに岡田将監を名乗っている。
 織田信長に仕え、後に徳川家康に仕える。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍の加藤清正の軍で戦功をあげる。この功績により、5,000石の旗本となる。また美濃国幕府領の代官となり、可児郡下切に屋敷を構える(下切城)。
徳川家康の信任が厚く、名古屋城築城普請奉行,大坂の陣の陣奉行,山田奉行として伊勢神宮造営にも尽力する。
 1613年(慶長18年)から1631年(寛永6年)には美濃国代官(美濃郡代)となり、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤の際の美濃国側の工事を指揮する。
 農民保護政策や治水事業に力を入れ、美濃国の独自の国役普請制度である「濃州国法」の原型をつくる。猿尾堤を発案した人物という(岡田善政の説もある)。
 1631年(寛永8年)には5,300石の旗本となり、揖斐陣屋を設置する。
 名古屋市の名物きしめんの名前の由来の説の一つとして、「雉子麺」からであるというのがある。ある説では、岡田善同が名古屋城築城普請奉行の時代、部下が雉子の肉を平らな麺にのせたものを献上し、それをたいそう褒めたという。後に雉子肉はなくなり、平らな麺のみがが雉子麺からきしめんと呼ばれるようになったという。