水戸徳川家→越前松平家→結城松平家

MT51:結城秀康  徳川家康 ― 結城秀康 ― 松平直基 MT57:松平直基

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松平直基 松平直矩

 結城松平家の祖。慶長9年(1604年)3月25日、結城秀康の5男として北庄城で誕生。誕生時より越前国片粕で養祖父・結城晴朝に養育される。この頃、結城五郎八といった。
 慶長12年(1607年)に結城家の家督を相続した。慶長19年(1614年)7月20日、晴朝が死去したため、その隠居料である5千石を相続する。元和元年(1615年)、越前国勝山で1万石を与えられる。同5年(1619年)、従五位下大和守となる。
 元和9年(1623年)3月、長兄の越前北庄藩(福井藩)主・忠直が叔父の江戸幕府2代将軍・徳川秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて豊後に配流(事実上の改易)、翌寛永元年(1624年)4月に幕府の命令で甥の仙千代(後の松平光長)と次兄・忠昌が領地交換の形で越後高田藩と福井藩へ移封、福井藩の領地は減封・分割され、減封分は三兄・直政と直基および弟の直良,若狭小浜藩主・京極忠高,忠直の元附家老・本多成重と共に分け与えられ、直政,直基,直良はそれぞれ越前大野藩5万石,越前勝山藩3万石,越前木本藩2万5000石を分与、忠高は敦賀郡2万2000石を分与、成重は越前丸岡藩4万8000石を与えられ独立した。
 こうして同年6月8日に勝山藩主3万石となる。同年、菩提寺として品量山大蓮寺(日蓮宗)を建立した。同2年(1625年)には浄光院法栄寺(浄土宗)が建立された。寛永5年(1628年)に江戸城石垣造営課役を負担したが、負担増により領内の聖丸村で走者が続いたため、寛永12年(1635年)に定免3ツ8分とした。
 寛永3年(1626年)8月19日、従四位下・大和守となり、結城を改めて松平を名乗る。これは親藩・譜代としての扱い(結城氏の場合は外様扱い)を受けるべくの対応で、名字こそ松平になったものの、家紋は結城家の結城巴、太閤桐から変えず、結城家の祭祀を継承した。長兄・忠直より偏諱を受け、直基を名乗る。
 寛永12年11月22日、越前大野城5万石に加増・移封された(大野藩)。2年前の寛永10年(1633年)に三兄・直政が大野藩から信濃松本藩へ転封していたため、後を受けた形だった(勝山藩は弟の直良が木本藩から転封)。大野藩では領内の村や寺社の諸役免除に務めた。
 正保元年(1644年)1月11日、山形城15万石(一説に10万石)に移る(山形藩)。同2年(1645年)12月30日、侍従に任じられる。山形藩の治世は4年だけだったが、領内の郷村支配のため郷村を18組に分けて大庄屋を1人ずつ任命する大庄屋制を採用したこと、キリシタンを厳しく取り締まったこと、寺社の保護を図ったことが挙げられる。
 慶安元年(1648年)6月14日、姫路城に移る(姫路藩)。しかし同年8月15日、江戸で死去した。死因は熱病だったとされ、転封命令から2ヶ月しか経っていなかった。45歳。相模小田原の最乗寺に葬られた。

 官位は従四位下侍従大和守。直基系越前松平家2代。
 姫路藩主・松平直基の長男として生まれる。父の死去により5歳で家督を相続したが、姫路は西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、越後国村上藩に国替となる。
 成人後、再び姫路藩に復帰したが、親戚の越後高田藩の御家騒動(越後騒動)に際し、出雲広瀬藩主・松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門のうえ豊後国日田藩に国替を命じられる。
 4年後、3万石加増のうえ出羽国山形藩、さらに6年後には5万石加増のうえ陸奥国白河藩へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰したが、生涯で幾度も国替を重ねた結果、「引越し大名」なるあだ名をつけられ、また家中は多大な借財を負うことになった。

 

 

松平基知 松平朝矩

 初代藩主・松平直矩の次男として誕生。元禄8年(1695年)、直矩が死去し、家督を相続する。
 元禄17年/宝永元年(1704年)、湧井の清水において雨乞いの大祈祷を挙行する。宝永2年(1705年)には江戸本所での浚渫、宝永7年(1710年)には江戸城吹上御殿の手伝普請をそれぞれ命ぜられ、藩財政が逼迫した。
 正徳2年(1712年)3月、弟の知清に1万石を分与し、白河新田藩を立藩させた。藩財政改善のため、土岐半之丞を執政としこれにあたらせた。半之丞は杉浦徳左衛門を郡奉行に任じ厳しい取立てを行わせたところ、享保4年(1719年)には全藩規模の百姓一揆が発生し、半之丞と徳左衛門は失脚した。
 享保14年(1729年)、江戸藩邸で死去した。享年51。養子に迎えていた知清の子・義知(甥、後の明矩)が跡を継いだ。
 転封が続いた先代に続き、上記のように手伝い普請や分知のために藩財政はさらに窮乏していたが、以後、同家の家宝として伝来した名刀「式部正宗」は基知が大金で購入したものである。式部正宗は当初中村一氏(式部少輔)が所持していたが、榊原康政(式部大輔)の手に渡り将軍家に献上された。そこでこの名がついたとされる。売却された経緯は不明だが、正徳2年(1712年)に2729両で購買したとされる。昭和10年(1935年)、重要美術品に認定されたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲の際、大久保の松平邸所蔵庫が焼夷弾を受け、鎌倉時代以来の結城家の古文書や名槍「御手杵」などと共に被災し焼失した。

 元文3年(1738年)3月16日、陸奥白河藩主・松平明矩の長男として生まれる。寛保元年(1741年)、父明矩が姫路藩へ転封となる。寛延元年(1748年)11月27日、11歳のとき父が急死。翌月27日に姫路藩15万石を継いだが、同月、姫路藩では大規模な農民一揆が発生していた。この年干魃と台風により姫路藩内は被害を受けており、藩は年貢の納期の延期等を認めたものの、農民が年貢の減免を求め強訴しようとしたのが発端である。
 この一揆が直接の原因となったわけではないが、朝矩の姫路藩主としての役目はすぐに終わりを迎えることとなる。姫路は西国を抑える要地であり、藩主が幼少の場合には他国に国替えという不文律があった。かつて曾祖父の直矩も幼少を理由に姫路から越後村上藩に移封させられたが、この時も「幼少の朝矩には姫路藩主は不適当」とされ、翌寛延2年(1749年)1月15日に、かねて姫路転封を狙っていた前橋藩主にして幕閣の重鎮・酒井忠恭と交代で前橋15万石への転封を命じられた。
 寛延4年(1751年)11月11日、元服、翌宝暦2年(1752年)5月7日前橋城へ初入城。宝暦8年(1758年)正月11日、朝矩に改名。宝暦9年(1759年)12月12日、将軍・徳川家重の右大臣転任にともない、陸奥会津藩主・松平容頌とともに朝廷への使者として内定されたが、近江彦根藩主で大老の井伊直幸が幕府内での序列に鑑みた上で工作を行ったことにより、内定は覆されて松平容頌と井伊直幸が使者となった。井伊直幸は後に養父の病気療養を理由に辞退、松平頼恭(高松松平家)が使者となる。
 前橋藩は利根川の洪水によりたびたび被害を受ける難所であり、前橋城もまた、本来は利根川を利用した天険の要害であったが逆に、その利根川の激流によって年々城地の浸食を受けて城郭の破壊が進み、朝矩の代には本丸にまで浸水して、居住するには大変危険な状態となっていた。かねてからの財政難もあり城の再建を諦め、明和4年(1767年)閏9月15日、本丸崩壊の危機を受け、幕府の許可を得て居城・藩庁を前橋から川越に移した。前橋城周辺の前橋領は川越藩の代官支配となり、前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却となった。
 明和5年(1768年)6月10日(『徳川実紀』では12日)川越にて死去、享年31。家督は次男の直恒が継いだ。墓所は川越喜多院。

松平斉典 松平斉省

 2代藩主・松平直恒の4男として誕生。兄で先代藩主の直温が22歳で死去したため家督を継ぎ、11代将軍・徳川家斉から偏諱を受けて矩典から斉典と改名した。結城松平家は度重なる転封により借財が23万6千余両(1両=8万円換算とすると約189億円)も累積しており、その利息と返済のための新規借入が年々4万両(約32億円)に上るという状況になっていた。名君として称えられる斉典の藩政は、この借財との闘いの連続であった。
 斉典は川越藩を継ぐと、農村復興を中核とする財政再建にただちに取りかかった。
 永続頼母子講は、藩領民が集まって、掛け金を払ってもらって、まとまった金を領内で困っている者に融資する金融システムで、これをもって農村復興の原資にしようとしたが、天保9年(1838年)には完全に失敗に帰する。
 天保2年(1831年)に町在奉行・安井政章が新政策として上申した「新建百姓政策」を採用し、天保5年(1834年)には社倉制(郷蔵制),蚕積金制など改革を断行した。前橋分封領内では一定の効果をあげたといわれる。
 斉典は川越から経済の内容が良い領地に転封することで、この債務を強引に整理することを画策し、大御所・徳川家斉周辺に多額の工作資金を費やして国替えを働きかけた。家斉の25男の紀五郎(後の松平斉省)を養子として迎えたのも、その布石と言われている。はじめ斉典は老中首座の水野忠成に播磨姫路への転封を願ったが、工作の途中で忠成が急逝したため、その願いが果たせずにいた。次いで、家斉の御側御用取次の水野忠篤や紀五郎の生母・お以登の方を通じて大奥にも画策し、商業が栄え肥沃な庄内平野を持つ庄内14万8000石への転封の幕命を出させることに成功した。庄内藩主・酒井忠器は越後長岡藩へ、越後長岡藩主・牧野忠雅は川越藩へ転封されることになった(三方領知替え)。
 しかし、酒井家を慕う庄内農民が猛反発し、反対強訴で転封が滞るうちに家斉,斉省が相次いで死去したため、幕命撤回という前代未聞の結末となり、転封は中止された。
 嘉永元年(1848年)、川越城本丸御殿を建設した。これは16棟・1025坪の規模を持っていたといわれており、今日に残る川越城唯一の遺構で全国的にも貴重である。明治維新後、大部分は破却され、現存しているのは玄関部分と移築復元された家老詰所のみである。
 また、斉典は藩政改革に並行して家臣たちの教育にも力を注ぎ、藩校・博喩堂を、文政8年(1825年)江戸藩邸に、文政10年(1827年)には川越城内西大手門北側にも開講し、藩医・保岡嶺南(英碩)を教授職に迎え、退廃した藩気風の引き締めと藩財政振興を図った。天保15年(1844年)には英碩に命じて、頼山陽の『日本外史』を校訂し出版させた。これは川越版と称されて、その版木も松平家に保管され歴史的価値も高かったが、昭和20年(1945年)の空襲で松平邸の所蔵庫が炎上し、他の宝物と共に失われた。

 11代将軍・徳川家斉の25男として誕生。12代将軍・徳川家慶の異母弟。
 文政8年(1825年)、川越よりも実高の多い領地へ転封を画策していた川越藩主・松平斉典の養子となる。斉典には跡継ぎとなるべき男子があったが、それを抑えての養子縁組だった。
 多額の借財を抱えていた藩財政を打開するため、斉典は大御所家斉の周辺に働きかけて国替えを画策した。幕閣のみならず、斉省の実母・お以登の方(本輪院)を通じて大奥にも工作し、出羽国庄内藩への転封を命ずる幕命を出すことに成功した。川越藩が庄内藩に転じ、庄内藩・酒井家は越後国長岡藩に、長岡藩・牧野家は川越藩に転封する三方領地替えと呼ばれる。しかし、思いがけず庄内領民の反対運動が起こり、大御所家斉と斉省が相次いで死去したため、幕命撤回という結末となり、転封は取り止めとなった。
 斉省は世子として天保6年(1835年)に叙任したが、天保12年(1841年)に家督を継ぐことなく早世した。

 

松平典則 松平直克

 天保7年(1836年)1月23日、4代藩主・松平斉典の4男として江戸にて誕生。長兄・典常が早世したのに伴って、弘化3年(1846年)11月27日に世子となり、嘉永2年(1849年)12月に名を典術から典則と改名した。嘉永3年(1850年)、父の死去により家督を継ぐ。幕命により、外国船の到来に備えて相模湾の警備を務め、嘉永6年(1853年)のペリー来航の際も警護を務めている。
 嘉永7年(1854年)8月13日、眼病を理由に家督を養子・直侯に譲って隠居する。安政4年(1857年)に静寿斎と号した。その後は川越城三の曲輪で隠居生活を送りながらも、「前君様」として藩政に影響力を持った。7代藩主・松平直克(直侯の養子)が上野国前橋藩に移封になると、それに従って前橋城三の丸に移っている。
 明治5年(1872年)に前橋城が前橋県庁になると柿の宮へ移り、明治10年(1877年)10月に東京へ移った。明治16年(1883年)7月24日に死去した。享年48。翌明治17年(1884年)には3男の基則が松平直方(直克の養子)から家督を継承している。

 

 天保11年(1840年)2月26日、筑後国久留米藩9代藩主・有馬頼徳の13男として(数え方により、5男とも記される)江戸にて誕生。富之丞(のちの松平直克)は幼少より俊敏利発で、また末弟であったことからも、10代藩主の長兄・頼永に鍾愛されたという。
 頼永の跡目については久留米藩の水戸学を奉じる一派「天保学連」のなかで富之丞を推す「内同志」派と反対する「外同志」派の対立が長く続いた
 文久元年12月6日(1862年)、川越藩6代藩主・松平直侯の婿養子となり、家督を継いだ。文久2年12月15日(1863年)に従四位下・侍従・大和守に叙位・任官する。文久3年(1863年)10月11日、前任の松平春嶽の辞職以降空席となっていた政事総裁職に就任、親藩大名ながら幕政に参画する。文久4年(1864年)1月には、14代将軍・徳川家茂と共に上京し、朝廷および参預会議との折衝にあたった。その後は孝明天皇の意向に沿い、禁裏御守衛総督の一橋慶喜と共に横浜港の鎖港を推進、同港鎖港を名目に挙兵した天狗党の乱の鎮圧にも反対したことから、他の幕閣と激しく対立した。元治元年(1864年)6月、政争は両派共倒れの形となり、直克は政事総裁職を罷免され、以後は幕政から退いた。
 結城松平家は18世紀半ばの松平朝矩の代に前橋城を本拠とする前橋藩に転封してきたが、度重なる利根川による浸食被害を受けて崩壊の危機に晒された前橋城を放棄し、幕府の許可を得て武蔵川越城に本拠を移転(川越藩)、前橋は分領として派遣の代官支配とした。前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却されていたが、旧来の藩都である前橋領では前橋城再建と藩主の前橋復帰の要望が強かった。天保年間に郡代奉行の安井政章(安井与左衛門)の指揮の下で利根川の改修が進められたことに加え、横浜開港後に前橋領の生糸の外国輸出によって財を成した前橋商人の間に、前橋城再建・藩主「帰城」のため藩に献金する経済力と気運が高まった。直克は文久3年(1863年)、幕府に願い出て前橋城の再築城を開始。慶応3年(1867年)3月、直克は前橋に本拠を移し、再び前橋藩となった。
 慶応4年(1868年)3月、新政府に帰順して上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により前橋藩知事に任じられるが、8月17日に、長男・恒之丞(後の直之)が幼少であったため、家督を養子の直方に譲って隠居した。明治30年(1897年)1月に正三位に叙位されるが、1月25日に死去した。享年58。