F526:本多忠勝 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多忠勝 ― 本多忠義 | F529:本多忠義 |
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本多忠義 | 本多忠平 |
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慶長7年(1602年)、本多忠政の3男として生まれた。祖父・忠勝の血を受け継いだ勇将で、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では年少であるにもかかわらず出陣して功を挙げた。元和元年(1615年)閏6月19日、従五位下能登守に叙位・任官する。 |
寛永9年(1632年)、本多忠義の長男として生まれる。 寛文2年(1662年)11月25日、父の隠居により家督を継ぐ。弟・本多忠利に1万石(陸奥石川藩),弟・本多忠以に1万石(陸奥浅川藩),弟・本多忠晴に新田2500石,弟・本多忠周に新田2500石を分与し、都合10万石となる。 |
本多忠常 | 本多忠烈 |
寛文元年(1661年)、本多忠義の6男として生まれる。初代藩主・本多忠平の実弟。延宝5年(1677年)閏12月26日、従五位下・能登守に叙位・任官する。元禄8年(1695年)、兄の死去によりその養嗣子として家督を継いだ。 |
正徳6年(1716年)、郡山で生まれる。享保7年(1722年)、兄で先代藩主の忠村の夭逝により跡を継いだ。しかし幼少であることを理由に、所領を5万石にまで減らされた。このため、家臣団280人(306人とも)の解雇が行なわれている。また、屋敷などの大々的な取り壊しも行なわれた。享保8年(1723年)11月27日、江戸で死去した。享年8。継嗣がなく、郡山藩本多家は断絶し、改易となった。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院。 |
本多忠次 | 本多忠央 |
延宝7年(1679年)10月21日、長門長府藩の第3代藩主・毛利綱元の次男として江戸で生まれる。初名は毛利匡英。元禄5年(1692年)7月26日に挙母藩の初代藩主・本多忠利の婿養子となって本多忠次を名乗り、元禄13年(1700年)の忠利の死去により家督を継いだ。 |
宝永5年(1708年)、挙母藩の第2代藩主・本多忠次の長男として生まれる。正徳元年(1711年)11月20日、父・忠次の死去により、家督を継いだ。享保7年(1722年)12月18日、従五位下・兵庫頭に叙位・任官する。後に長門守に遷任する。 寛保2年(1742年)6月に大番頭となる。 |
本多忠周 | |
寛永19年(1642年)、本多忠義の5男として生まれる。初名は忠当。寛文2年(1662年)11月25日、陸奥白河藩主である長兄・本多忠平から2500石を分与され、別家をたてる。 |