<藤原氏>北家 兼通流

F529:本多忠義  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多忠勝 ― 本多忠義 ― 本多忠以 F530:本多忠以

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本多忠晴 本多忠籌

 寛永18年(1641年)、江戸で本多忠義の4男として生まれる。文武両道の名君だったと言われている。
 寛文2年(1662年)11月25日、陸奥白河藩主である長兄・忠平から2500石を分与された。寛文4年(1664年)に3兄である陸奥浅川藩初代藩主・忠以の死去により、その跡を継いだ。同年12月28日、従五位下・弾正少弼に叙位・任官される。
 天和元年(1681年)に三河国伊保に移封され、元禄5年(1692年)に大番頭となる。元禄15年(1702年)に奏者番と寺社奉行を兼任する。宝永2年(1705年)には7000石を加増された。宝永7年(1710年)、遠江国相良へ移封された。
 正徳5年(1715年)4月12日に死去した。享年75。長男の忠直は、大和郡山藩主となったため、孫で忠直の長男・忠通が跡を継いだ。

 寛政の三忠臣の一人と称される。元文4年(1739年)12月8日、泉藩初代藩主・本多忠如の長男として江戸下谷の藩邸で生まれる。宝暦4年(1754年)8月29日、父の隠居で家督を継ぐ。天明7年(1787年)、若年寄に任じられる。天明8年(1788年)2月2日に側用人に任じられる。5月1日には従四位下弾正大弼に昇叙する。以降、松平定信,松平信明とともに寛政の改革を推進していくことになる。寛政2年(1790年)4月16日には老中格に任ぜられて、侍従に任官した。また、5000石を加増されて城主格になった。
 好学の大名であり、佐藤玄明窩(佐藤信淵の父)に経世済民の学を学び、藩政統治に生かそうとした。また、中沢道二に石門心学を学び、善教舎を開設して人心の教化育成に努めた。また、心学を通じて松平定信と親交が生まれることになる。飢饉用の備蓄庫である郷蔵を設置し、堕胎を禁止した。
 寛政の改革における幕政に参与し、閣内においては早くから国防の必要性を痛感し、最上徳内の『蝦夷草紙』に影響を受け、蝦夷地を幕府直轄地とし、開拓を進めてロシアの南下政策に対抗すべしと主張した。この主張は蝦夷地は旧来どおり松前藩に統治させるべしとする定信に容れられず、彼の在任中には実現しなかったが、退陣後の文化8年(1811年)に蝦夷地の天領化が実現している。
 寛政5年(1893年)7月、徳川治済の賛同のもと、独裁傾向を強める定信の老中解任を実現した。それに伴い老中勝手掛の月番制を導入した。寛政10年(1798年)10月10日、老中職を辞任した。寛政11年(1799年)10月23日に家督を庶長子の忠誠に譲って隠居する。嫡子に次男の忠雄がいたが、忠雄が21歳のときに廃嫡したため、庶子の忠誠に家督を継がせた。文化9年(1812年)12月15日に病死した。享年74。

本多忠誠 本多忠徳

 宝暦11年(1761年)1月、第2代藩主・本多忠籌の庶長子として生まれる。正室所生の弟・忠雄が世子となっていたが、天明5年(1785年)に父によって廃嫡され、代わって忠誠が世子となる。寛政11年(1799年)10月23日、父の隠居により家督を継いだ。
 藩政においては父の政策を受け継ぎ、農村救済や学問の奨励、さらに藩財政再建を目的とした倹約を行なっている。文化12年(1815年)7月5日、長男の忠知に家督を譲って隠居する。天保3年(1832年)3月8日に死去した。享年72。

 兄が早世したため、世子となる。天保7年(1836年)に父が隠居し家督を継いだ。藩政では、藩校・汲深館を設立し、文武奨励・藩風の一新,文化の興隆を図った。
 万延元年(1860年)6月12日、江戸で死去した。享年43。跡を弟で養子の忠紀が継いだ。著書に『汲深斎日記』がある。

本多忠紀

 文政2年(1819年)11月27日、第4代藩主・本多忠知の4男として生まれる。万延元年(1860年)8月20日、兄で第5代藩主の忠徳が死去した際、その養子して襲封した。同年9月1日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下能登守に叙任する。文久3年(1863年)10月1日に寺社奉行に任じられる。同年10月22日に奏者番の再置により同職を加役される。元治元年(1864年)7月6日に若年寄に昇進したが、同年12月12日に罷免され、帝鑑之間詰となった。慶応2年(1866年)6月22日、若年寄に再任されるが、翌年4月27日には職を辞している。
 慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まると、当初は新政府軍に恭順の意を唱えるが、仙台藩,米沢藩の要請に応じ奥羽越列藩同盟に加盟する。その結果、新政府軍の攻撃を受けて同年6月28日に泉陣屋は陥落し、忠紀は仙台藩に避難した。9月24日、忠紀は新政府軍に対し降伏・謝罪を申し入れ、9月27日に認められた。正式な処分の下るまでの間、謹慎を命じられた。同年11月5日、官位を止められた。忠紀は新政府に敵対したことにより、同年12月7日に2000石の減封、及び強制隠居を命ぜられ、家督は養子の忠伸が継いだ。明治2年10月13日、従五位に復した。明治16年(1883年)2月16日に死去した。享年65。