F529:本多忠義 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多忠勝 ― 本多忠義 ― 本多忠以 | F530:本多忠以 | ● |
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本多忠晴 | 本多忠籌 |
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寛永18年(1641年)、江戸で本多忠義の4男として生まれる。文武両道の名君だったと言われている。 |
寛政の三忠臣の一人と称される。元文4年(1739年)12月8日、泉藩初代藩主・本多忠如の長男として江戸下谷の藩邸で生まれる。宝暦4年(1754年)8月29日、父の隠居で家督を継ぐ。天明7年(1787年)、若年寄に任じられる。天明8年(1788年)2月2日に側用人に任じられる。5月1日には従四位下弾正大弼に昇叙する。以降、松平定信,松平信明とともに寛政の改革を推進していくことになる。寛政2年(1790年)4月16日には老中格に任ぜられて、侍従に任官した。また、5000石を加増されて城主格になった。 |
本多忠誠 | 本多忠徳 |
宝暦11年(1761年)1月、第2代藩主・本多忠籌の庶長子として生まれる。正室所生の弟・忠雄が世子となっていたが、天明5年(1785年)に父によって廃嫡され、代わって忠誠が世子となる。寛政11年(1799年)10月23日、父の隠居により家督を継いだ。 |
兄が早世したため、世子となる。天保7年(1836年)に父が隠居し家督を継いだ。藩政では、藩校・汲深館を設立し、文武奨励・藩風の一新,文化の興隆を図った。 |
本多忠紀 | |
文政2年(1819年)11月27日、第4代藩主・本多忠知の4男として生まれる。万延元年(1860年)8月20日、兄で第5代藩主の忠徳が死去した際、その養子して襲封した。同年9月1日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下能登守に叙任する。文久3年(1863年)10月1日に寺社奉行に任じられる。同年10月22日に奏者番の再置により同職を加役される。元治元年(1864年)7月6日に若年寄に昇進したが、同年12月12日に罷免され、帝鑑之間詰となった。慶応2年(1866年)6月22日、若年寄に再任されるが、翌年4月27日には職を辞している。 |