F525:本多助秀 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多忠勝 | F526:本多忠勝 |
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本多忠勝 | 本多忠政 |
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三河国額田郡蔵前で生まれる。天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育つ。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。初首は15歳の時で、今川氏真の武将の小原備前と戦った長沢の戦いの時、叔父の忠真が倒した敵の武将の首を忠勝に与えて武功を飾らせようとしたが、忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げたので、忠真をはじめとする諸将は忠勝を只者ではないと感じ入った。 |
天正18年(1590年)の小田原征伐に初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てた。慶長3年(1598年)3月、従五位下に叙せられて美濃守と称した。 |
本多忠刻 | 本多国姫 |
慶長元年4月14日(1596年5月11日)、後の姫路藩主・本多忠政の長男として生まれる。祖父の本多忠勝が慶長6年(1601年)に桑名藩に入部すると、忠政と共に桑名に移った。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長19年5月7日(1615年6月3日)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた。戦後の元和2年9月29日(1616年11月8日)、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。この婚姻に関しては大坂落城後の7月に千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話がある。また家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした千姫のためを考えて忠刻やその生母に婚姻を命じたとする逸話もある。 |
姫路藩主・本多忠政の長女。母は松平信康の次女・熊姫。福島藩主・堀忠俊の正室、後に延岡藩主有馬直純の正室。実名は国姫。 |
本多亀姫 | 本多忠朝 |
国姫と同じく曽祖父・徳川家康の養女となり、松本藩の世嗣・小笠原忠脩に嫁いだが、元和元年(1615年)4月、夫が大坂夏の陣で戦死した。家康の命により、元和2年(1616年)12月、その同母弟・忠真に再嫁した。寛永20年(1643年)に47歳で死去し、浅草海禅寺に葬られた。 |
父に劣らぬ勇将で、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍した。戦後、その戦功により、父が伊勢桑名藩に移封されると、父の旧領・上総大多喜5万石を与えられた。慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴの一行が航海中に難破し上総国岩和田村田尻の浜に漂着した際はこれを保護し歓待した。 |