<藤原氏>北家 兼通流

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本多忠勝 本多忠政

 三河国額田郡蔵前で生まれる。天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育つ。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。初首は15歳の時で、今川氏真の武将の小原備前と戦った長沢の戦いの時、叔父の忠真が倒した敵の武将の首を忠勝に与えて武功を飾らせようとしたが、忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げたので、忠真をはじめとする諸将は忠勝を只者ではないと感じ入った。
 永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして同年齢の榊原康政や本多正重,都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。
 元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。
 元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝は味方を退却させるために敵と味方両軍の間に割って入り、蜻蛉切を頭上高く振り回して踏み止まり、さらに武田軍が追撃しようとするたびに数度馬首を返し、見事な進退で殿軍を務めた。12月の三方ヶ原の戦いにも参戦した。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加する。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ面白い川柳もある。
 天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って織田信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという。
 天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍は苦戦して崩れたかに見えたが、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った。この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛され、徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日(天正16年(1588年)4月とも)、従五位下・中務大輔に叙位・任官された。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総夷隅郡大多喜に康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍し、吉川広家など諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名藩10万石(一説に15万石または12万石)に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている。
 忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し民政を行なって桑名藩創設の名君と仰がれている。しかし晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康,秀忠の側近として台頭してきたため、忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ不遇であった。慶長14年(1609年)6月、嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居する。慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。享年63。この際に重臣の中根忠実と梶原忠両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬された。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している。
 忠勝の子孫は、その後転封を繰り返して、姫路藩などを経由し、三河岡崎藩5万石に落ち着いた。

 天正18年(1590年)の小田原征伐に初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てた。慶長3年(1598年)3月、従五位下に叙せられて美濃守と称した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第2次上田合戦にも従軍。慶長14年(1609年)6月に父が隠居したため、家督を相続して桑名藩の第2代藩主となる。
 大坂の陣にも参加し、冬の陣では慶長19年(1614年)10月11日に徳川軍の先鋒を命じられた。忠政は大坂城包囲においては北側の天神橋方面に陣取っていた。なお、冬の陣が終わって家康が帰途についた際、桑名で一泊している。なお、冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、埋め立て奉行を松平忠明らと担当している。慶長20年(1615年)の夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後に家康の軍勢と南下して5月7日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと戦った。薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。この合戦で忠政は292の敵首をとった。戦後には、それらの功績を賞されて西国の押さえとして、元和3年(1617年)7月14日に姫路城主となって15万石を領した。寛永3年(1626年)8月に従四位下に叙せられ侍従に任命された。寛永16年(1631年)8月10日に姫路で死去した。享年57。嫡男の忠刻が寛永3年(1626年)に早世していたため、家督は次男の政朝が継いだ。
 義兄の真田信之と上田城に真田昌幸を説得しに行ったという話でも有名である。長姉・小松姫の夫である信之とは仲が良かったようである。
 父の死後、その遺産をめぐって弟の忠朝と争い、相続が認められたものの、家康から「(決定に対して異議を唱えなかった)忠朝のほうが忠勝に似て武将にふさわしい」と皮肉られたという。

本多忠刻 本多国姫

 慶長元年4月14日(1596年5月11日)、後の姫路藩主・本多忠政の長男として生まれる。祖父の本多忠勝が慶長6年(1601年)に桑名藩に入部すると、忠政と共に桑名に移った。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長19年5月7日(1615年6月3日)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた。戦後の元和2年9月29日(1616年11月8日)、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。この婚姻に関しては大坂落城後の7月に千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話がある。また家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした千姫のためを考えて忠刻やその生母に婚姻を命じたとする逸話もある。
 元和3年(1617年)、千姫の化粧料として父・忠政とは別個に10万石を新地に与えられて姫路藩に移った。剣術を好み、兵法者・宮本武蔵を迎えて師事し、家士をしてその流儀を学ばせた。また武蔵の養子・三木之助を小姓として出仕させ側近とした。また長じるに従い、忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美丈夫だった。千姫との間には元和4年(1618年)に長女・勝姫(池田光政室)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれたが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で早世し、忠刻も寛永3年5月7日(1626年6月30日)に結核のため死去した。享年31。なお、宮本三木之助(23歳)は忠刻の供をして殉死し、その他に岩原牛之助(21歳)も殉死した。忠刻は忠政の世子だったが早世したため、弟の政朝が世子となって姫路藩第2代藩主となる。

 姫路藩主・本多忠政の長女。母は松平信康の次女・熊姫。福島藩主・堀忠俊の正室、後に延岡藩主有馬直純の正室。実名は国姫。
 慶長10年(1605年)10月、曽祖父・徳川家康の養女となり、堀忠俊に嫁いだが、慶長14年(1609年)春、忠俊が改易となったので離縁した。
 慶長15年(1610年)11月、有馬直純に再嫁した。このとき美濃国北方に化粧料として1100石賜っている。直純との間に、康純,本多政勝室,本多政勝養妹,秋元富朝室,純政の2男3女を儲けた。
 慶安2年(1649年)に死去した。享年55。江戸天徳寺に葬られた。

本多亀姫 本多忠朝
 国姫と同じく曽祖父・徳川家康の養女となり、松本藩の世嗣・小笠原忠脩に嫁いだが、元和元年(1615年)4月、夫が大坂夏の陣で戦死した。家康の命により、元和2年(1616年)12月、その同母弟・忠真に再嫁した。寛永20年(1643年)に47歳で死去し、浅草海禅寺に葬られた。

 父に劣らぬ勇将で、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍した。戦後、その戦功により、父が伊勢桑名藩に移封されると、父の旧領・上総大多喜5万石を与えられた。慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴの一行が航海中に難破し上総国岩和田村田尻の浜に漂着した際はこれを保護し歓待した。
 慶長15年(1610年)、父が亡くなると、父の遺産を兄・忠政にほとんど横取りされたが、忠朝は何も言わなかったと言う。このため、兄よりも忠勝に似ていて武将としてふさわしいと、家康から褒め称えられたという。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦したが戦死した。死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残したといわれ、死後「酒封じの神」として知られるようになった。家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝を大和郡山藩主として封じた。墓は一心寺の境内にある。「酒封じの神」の伝承から、禁酒を誓う人がよく詣でている。