F526:本多忠勝 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多忠勝 ― 本多政朝 | F527:本多政朝 |
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本多政朝 | 本多政勝 |
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慶長4年(1599年)、本多忠勝の長男本多忠政(後に姫路藩の初代藩主)の次男として生まれる。 |
「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという。慶長20年(1615年)、上総大多喜藩主だった父の忠朝が大坂夏の陣で戦死したときはまだ2歳だったため、従兄の政朝が家督を継ぐこととなった。ところが本家を継ぐはずだった政朝の兄の忠刻が早世したため、政朝がその跡を継ぐこととなり、政勝が庶流の家督を継ぐことになったのである。このとき政朝の所領5万石のうち4万石を襲封し、残り1万石は政朝の弟・忠義に分与された。 |
本多政利 | 本多政長 |
父・政勝は、本多家宗家である従兄の大和郡山藩主・本多政朝の跡を相続し襲封した。これは政朝の実子・政長が、わずか6歳という幼少であったために襲封したもので、政勝の跡は政長と定められていた。しかし、実子の政利に家督を相続させようと考えた政勝は大老・酒井忠清に取り入ろうとするが、家臣の都築云成の忠言により、政長が養嗣子と定められた。 |
父・政朝が病に倒れたときはわずか6歳であり、このため本多家の家訓(幼君に家督を継がせてはならぬという掟)により、従兄の政勝が家督を継いだ。 |
本多忠国 | 本多忠良 |
陸奥守山藩主・松平頼元の次男に生まれる。水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、2代藩主・徳川光圀の甥にあたる。大和郡山藩主・本多政長の養子となり、政長死後、家督相続と同時に福島15万石に転封、その後姫路15万石に転封となる。 |
本多平八郎家の分家筋にあたる播磨山崎藩主・本多忠英の長男として生まれる。宝永7年(1710年)、15万石の本家当主・本多忠孝が7歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところを、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった。ただし、藩主死去後の急養子の形であるため、忠良相続後まもなく、10万石減封の上で越後村上から三河刈谷に転封となっている。 |
本多忠典 | 本多忠顕 |
宝暦14年(1764年)1月24日、石見浜田藩主・本多忠盈の次男として石見浜田で生まれる。安永6年(1777年)に岡崎藩主本多忠粛が死去したため、その養子として家督を継ぐ。しかし本多氏は、相次ぐ移封で財政難となる。そのため、幕府に豊かな土地への移封を願い出るが許されず、代わって安永7年(1778年)に1万両を10年かけて与えられることとなり、諸役も免除されることとなった。天明3年(1783年)には預かり地を与えてもらうように幕府に願い出るが、これも許されなかった。 |
安永5年(1776年)4月16日、伊予国西条藩第6代藩主松平頼謙の次男として江戸で生まれる。幼名は敬次郎。寛政2年(1790年)に岡崎藩主本多忠典が早世したため、その養子として家督を継ぐことになるが、藩内で相次ぐ養子問題から家督抗争が起こる。しかし、幕府の老中松平定信と本多一族の本多忠籌の調停により、抗争は鎮められた。 |
本多忠考 | 本多忠民 |
文化2年(1805年)、第3代藩主本多忠顕の四男として生まれる。4男のため、はじめ母方の姓で乙見敬次郎を名乗っていた。文化11年(1814年)に本多姓に復し、本多忠祥と名乗る(のちに忠考と改名)。 |
岡崎藩主・本多忠考の婿養子となり、天保6年(1835年)5月1日将軍・徳川家斉に拝謁する。同年5月24日、養父・忠考の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下中務大輔に叙任する。 |
本多忠直 | 本多忠敬 |
天保15年(1844年)、信濃小諸藩の第9代藩主・牧野康哉の5男として生まれる。慶応3年(1867年)10月25日、岡崎藩の第5代藩主・本多忠民の養子忠肇が早世したため、代わって養嗣子となる。幕末期には忠民と共に協力して藩政を行なった。慶応4年(1868年)3月12日、養父・忠民に代わって上京し、新政府に恭順の意思を示した。4月には駿府城の警備を務めている。 |
文久3年10月14日(1863年11月24日)、本多忠胤の長男として生まれる。弟は第2代岡崎市長の本多敏樹。 |
本多敏樹 | |
愛知県岡崎市生まれ。学習院,札幌農学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学。大学を中退したあと、1904年(明治37年)、陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍。退役後、北海道庁技師に任官し未開地開発に取り組む。 |