F524:藤原兼通 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 | F525:本多助秀 |
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本多忠豊 | 本多忠高 |
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松平氏に仕えて、その重臣として活動した。天文14年(1545年)、三河安祥城をめぐる織田信秀との戦い(第3次安祥合戦)で敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍を務めて討死した。 |
父同様、松平清康や松平広忠に仕えた。天文16年(1547年)、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱を起こした際にも出陣し、また、翌年にも尾張国の織田信秀が三河国に侵攻すると、今川氏の太原雪斎と広忠は小豆坂にて迎撃し、忠高もそれに従い織田軍と戦い、勝利を収めた(小豆坂の戦い)。しかし、天文18年(1549年)3月、主君・広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺した。今川氏当主・今川義元は三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れ、腹心の太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点であった安祥城を攻めた(第3次安城合戦)。守将の織田信広は城をよく守ったため、忠高は大久保忠俊らとともに夜襲に及び、戦果を収めたが、翌日の戦いにて敵の矢に当たって討死した。 |
本多忠真 | |
槍の名手として知られる。天文14年(1545年)の三河国安祥城攻め(第3次安祥合戦)において父・忠豊、天文18年(1549年)の安祥城攻め(第4次安祥合戦)で兄・忠高が討死すると、兄嫁とその子・鍋之助(のちの本多忠勝)を欠城に保護し、読み書きから武士としての心得など、幼年の鍋之助を教育した。 |