F525:本多助秀 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多正忠 | F531:本多正忠 |
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本多正忠 | 本多忠俊 |
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代々三河伊奈城主。1529(享禄2)年、当時の伊奈城主の本多正忠は,松平清康軍に参加し, 先陣をきって東門を破り、吉田城の牧野成命を攻め落とした。ついで清康は軍を田原城へ向かわせたが, 城主の戸田氏が降伏したため、正忠は直ちに清康を招き伊奈城に凱旋し祝宴を開いた。この祝宴の際、松平清康は本多家家紋「立葵の紋が気に入り、譲り受けたとされる。このように本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。 |
弘治2年(1556年)8月、今川義元から離反した奥平貞勝を鎮圧する雨山合戦に、第2陣として参戦した。永禄3年(1560年)5月、義元の尾張侵攻では、自らは参戦せずに嫡男・光忠を代将として派遣した。 |
本多忠次 | 本多康俊 |
永禄7年(1564年)東三河吉田城攻めに父・忠俊と共に参陣、同年3月4日(1565年4月4日)には忠俊が死没するが、兄の本多光忠は所労あるにより、忠次が代わって忠俊の跡を継ぎ徳川家康に仕える。永禄8年3月、本多忠次は家臣・戸田小栗を派遣して今川方の吉田城主小原鎮実を数度にわたり説得、結局小原は吉田城を開き遠州に落ちた。これにより、家康は東三河も含め三河国八郡の殆どを勢力下に収めることに成功したとされ、これに対する忠次の功績は大きいとして忠次と兄・光忠の所領加増ならびに弟の本多光典,家臣・戸田小栗にそれぞれ50貫文の地の恩賞を与えた。 |
徳川四天王の筆頭酒井忠次の次男。生母は松平広忠の妹なので、徳川家康とは従兄弟の関係に当たる。天正3年(1575年)、織田信長の人質として織田氏のもとへ赴いた後、天正8年(1580年)に本多忠次の養子となった。天正18年(1590年)、家康が関東へ移封されると、下総国に5000石の所領を与えられた。 |
本多俊次 | |
文禄4年(1595年)、徳川氏の重臣(のち膳所藩初代藩主)本多康俊の長男として下総小篠で生まれる。慶長15年(1610年)に従五位下・下総守に叙任される。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では父と共に参加し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍・徳川秀忠に従って武功を挙げた。 |