<藤原氏>北家 兼通流

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本多康将 本多康慶

 元和8年(1622年)、三河西尾藩主・本多俊次の次男として西尾で生まれる。万治元年(1658年)に兄の康長が早世したため、万治2年(1659年)12月15日に世子に指名され、12月28日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官される。寛文4年(1664年)9月12日、父の隠居により家督を継いで第3代藩主となった。
 延宝3年(1675年)に隠居を江戸幕府に願い出たが、許されなかった。延宝7年(1679年)6月18日、家督を甥で養子の康慶に家督を譲って隠居する。元禄4年(1691年)1月7日、膳所で死去した。享年70。

 正保4年(1647年)、伊勢亀山藩主・本多俊次の長男・本多康長の子として亀山で生まれる。父の康長は嫡子だったが、万治元年(1658年)に早世した。このため、万治2年(1659年)12月、父に代わって嫡子となった叔父・本多康将の婿養子となる。寛文4年(1664年)12月28日、従五位下・隠岐守に叙位・任官する。延宝7年(1679年)6月18日に康将の隠居により、家督を継いで第4代藩主となる。このとき、康将の次男である忠恒に1万石を分与し、支藩として河内西代藩を立藩させた。
 正徳4年(1714年)3月4日、長男の康命に家督を譲って隠居する。享保3年(1718年)11月10日、大津で死去した。享年72。

本多康桓 本多康完

 正徳4年(1714年)、河内西代藩主(のち伊勢神戸藩主)本多忠統の長男として西代で生まれる。享保13年(1728年)12月21日に従五位下・丹後守に叙位・任官される。元文2年(1737年)4月7日に第6代藩主・本多康敏の養子となった。4月8日に隠岐守に遷任される。延享2年(1745年)9月1日に下総守に遷任される。延享4年(1747年)に康敏が死去したため、家督を継いだ。
 宝暦10年(1760年)7月28日に隠岐守に再任される。明和2年(1765年)1月25日、長男の忠薫は病弱で廃嫡したため、弟の康政を養子として家督を譲り隠居する。隠居した後次第に病がちになり、明和6年(1769年)6月18日に死去した。享年56。
 越後長岡藩主・牧野忠利の正室になった逸姫は『寛政重修諸家譜』を初めとする公式記録では娘となっているが、越後長岡藩の史料『御附録』では実は康桓の義兄弟の牧野忠周の実子で故あって康桓の娘ということにしたとある。忠利の死去後に再び本多家に戻り、豊姫と改名して永井直珍と再婚した。

 7代藩主・本多康桓の嫡子でのち廃嫡された本多忠薫の長男。先代藩主・本多康匡の養嗣子となり、康匡が天明元年(1781年)12月に死去したため、翌年2月22日に跡を継いだ。寛政2年(1790年)12月より御所造営を担当して、後桜町天皇や幕府から賞賛された。文化3年(1806年)10月8日、38歳で死去し、後を弟の康禎が継いだ。
本多康穣

 幕末期は京都御所警備,和宮警護,孝明天皇の石清水八幡宮行幸の警護などを務めたが、康穣は幕府に対して長州征討に反対する提言書を出したりしている。元治元年(1864年)の禁門の変では御所の警備を務めた。しかし藩内では尊王派と佐幕派が藩の主導権をめぐって争い、このために第14代将軍・徳川家茂の膳所宿泊が中止になるほどであったが、藩内部でやがて佐幕派が力を盛り返し、尊王派11名を処刑した(膳所城事件・膳所藩十一烈士)。しかしその後、佐幕派であった川瀬太平が尊王派に殺されると尊王派が力を盛り返し、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して伊勢桑名藩攻めに出兵した。
 康穣は諸藩に先駆けて版籍奉還を願い出て、明治2年(1869年)6月、版籍奉還により膳所藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により知藩事職を免職された。明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙せられる。明治35年(1902年)、神道管長に任じられ、従二位に昇叙された。明治45年(1912年)2月28日に死去した。死因は脳溢血とされる。