<藤原氏>北家 兼通流

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本多忠統 本多忠永

 元禄4年(1691年)6月18日、近江国,河内国で1万石を領した本多忠恒の次男として生まれる。兄の仙千代が早世したために世子となり、宝永元年(1704年)に父が死去したため、家督を継いだ。宝永4年(1707年)3月23日、第5代将軍・徳川綱吉の小姓となり、綱吉死後の宝永6年(1709年)2月21日まで務めた。正徳元年(1711年)には河内国西代に陣屋を定めている。享保4年(1719年)9月3日に大番頭に任じられた後、享保9年(1724年)12月23日には奏者番と寺社奉行を兼任する形で任命され、享保10年(1725年)6月11日には若年寄に任じられて、第8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与することとなった。享保15年(1730年)4月9日には勝手掛に任命された。
 享保17年(1732年)4月1日、伊勢神戸藩に移封となる。享保の改革では、松平乗邑と共に吉宗を助けて改革を推進した。その一方で享保の大飢饉において神戸藩が大被害を受けると、窮民救済に努めている。延享2年(1745年)、吉宗の命令で徳川家重付の家臣となり、同時に5000石加増と神戸城築城も認められ、1万5000石の大名となる。
 延享4年(1747年)に江戸城内で肥後熊本藩主・細川宗孝が板倉勝該に斬殺されるという事件が起こると、その解決や細川氏存続に尽力している。寛延3年(1750年)、病気を理由に若年寄を辞任し、11月19日には5男の忠永に家督を譲って隠居した。宝暦7年(1757年)2月29日に死去。享年67。
 「猗蘭侯」と称し、書画や儒学に通じた文人大名としても知られた。茶人としても有名で茶名を「宗範」と称した。

 享保9年(1724年)5月17日、初代藩主・本多忠統の5男として生まれる。延享4年(1747年)に嫡子の兄・忠篤が早世したために世子となる。寛延3年(1750年)11月19日の父の隠居により、家督を継いだ。
 寛延4年(1751年)4月、一橋門番となる。宝暦2年(1752年)6月、馬場先門番に任じられる。9月には日光祭礼奉行となる。宝暦3年(1753年)2月に大坂加番に任じられ、宝暦6年(1756年)6月には半蔵門番、宝暦9年(1759年)9月には田安門番などを歴任した。宝暦10年(1760年)10月13日、家督を養子の忠興(兄・忠篤の長男)に譲って隠居した。
 天明4年(1784年)、剃髪して随翁と号した。その後は藩政に関わらず、小栗旨源に和歌・俳句を学び、茶道にも関心を示して出雲松江藩主・松平治郷と交遊したという。
 文化14年(1817年)5月17日に死去した。享年94。当時としては驚異的な94歳という長寿であったこともあり、家臣や領民に慕われることとなり、死後の文政元年(1818年)には儒学者の長野潜によって「思徳の碑」が建設されることとなった。著書に『俳諧ふたわらひ』がある。

本多忠升 本多忠寛

 寛政3年(1791年)10月9日、本家の近江膳所藩の嫡子・本多忠薫の4男として生まれる。享和2年(1802年)7月に神戸藩の第4代藩主・本多忠奝の養子となる。享和3年(1803年)、忠奝の死去により家督を継いだ。
 大坂加番代,江戸城各門番,日光祭祀奉行代などを歴任した。藩政では藩学を朱子学に統一し、藩校を教倫堂と改めた。天保11年(1840年)9月20日、病気を理由に家督を次男の忠寛に譲って隠居する。安政4年(1857年)4月に剃髪して昧翁と号した。安政6年(1859年)8月22日に死去した。享年69。

 文政10年(1827年)1月20日、第5代藩主・本多忠升の次男として神戸で生まれる。天保11年(1840年)7月28日、将軍・徳川家慶に拝謁する。同年9月20日、父の隠居にともない家督を継ぐ。天保12年12月16日、従五位下伊予守に叙任する。江戸幕府の天保の改革における上知令で領地の差し替えを命じられそうになるが、老中の水野忠邦が失脚したために取り消しとなった。
 弘化元年(1844年)、一橋門番や日光祭祀奉行を、弘化4年(1847年)には大坂加番代を、嘉永2年(1849年)には竹橋門番を務めた。安政4年(1857年)4月26日、家督を養子の忠貫に譲って隠居する。明治18年(1885年)12月20日に死去した。享年59。

本多忠貫

 天保4年(1833年)11月28日、出羽新庄藩主・戸沢正令の次男として江戸で生まれる。第6代神戸藩主・本多忠寛が初め養嗣子としていた忠穆が早世したため、安政3年(1857年)2月に新たに養嗣子とされ、翌安政4年(1858年)4月1日に将軍・徳川家定に拝謁する。同年4月26日の養父の隠居により家督を継いだ。安政5年(1859年)11月23日、従五位下伊予守に叙任する。竹橋門番を務めた後の文久3年(1863年)10月に山田奉行に任じられている。
 明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治31年(1898年)6月24日に死去した。享年66。家督は外孫の忠鋒が継いだ。