F532:本多康将 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多正忠 ― 本多康将 ― 本多忠統 | F533:本多忠統 | ● |
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本多忠統 | 本多忠永 |
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元禄4年(1691年)6月18日、近江国,河内国で1万石を領した本多忠恒の次男として生まれる。兄の仙千代が早世したために世子となり、宝永元年(1704年)に父が死去したため、家督を継いだ。宝永4年(1707年)3月23日、第5代将軍・徳川綱吉の小姓となり、綱吉死後の宝永6年(1709年)2月21日まで務めた。正徳元年(1711年)には河内国西代に陣屋を定めている。享保4年(1719年)9月3日に大番頭に任じられた後、享保9年(1724年)12月23日には奏者番と寺社奉行を兼任する形で任命され、享保10年(1725年)6月11日には若年寄に任じられて、第8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与することとなった。享保15年(1730年)4月9日には勝手掛に任命された。 |
享保9年(1724年)5月17日、初代藩主・本多忠統の5男として生まれる。延享4年(1747年)に嫡子の兄・忠篤が早世したために世子となる。寛延3年(1750年)11月19日の父の隠居により、家督を継いだ。 |
本多忠升 | 本多忠寛 |
寛政3年(1791年)10月9日、本家の近江膳所藩の嫡子・本多忠薫の4男として生まれる。享和2年(1802年)7月に神戸藩の第4代藩主・本多忠奝の養子となる。享和3年(1803年)、忠奝の死去により家督を継いだ。 |
文政10年(1827年)1月20日、第5代藩主・本多忠升の次男として神戸で生まれる。天保11年(1840年)7月28日、将軍・徳川家慶に拝謁する。同年9月20日、父の隠居にともない家督を継ぐ。天保12年12月16日、従五位下伊予守に叙任する。江戸幕府の天保の改革における上知令で領地の差し替えを命じられそうになるが、老中の水野忠邦が失脚したために取り消しとなった。 |
本多忠貫 | |
天保4年(1833年)11月28日、出羽新庄藩主・戸沢正令の次男として江戸で生まれる。第6代神戸藩主・本多忠寛が初め養嗣子としていた忠穆が早世したため、安政3年(1857年)2月に新たに養嗣子とされ、翌安政4年(1858年)4月1日に将軍・徳川家定に拝謁する。同年4月26日の養父の隠居により家督を継いだ。安政5年(1859年)11月23日、従五位下伊予守に叙任する。竹橋門番を務めた後の文久3年(1863年)10月に山田奉行に任じられている。 |