<藤原氏>北家 兼通流

F525:本多助秀  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多康重 F536:本多康重

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本多康重 本多康紀

 永禄5年(1562年)、元服し主君の徳川家康から片諱を与えられる。永禄12年(1569年)、掛川城攻めにて初陣を果たした。元亀元年(1570年)の姉川の戦いや天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに参加し、特に長篠の戦いにおける鳶巣山の戦いで武田軍に左股を撃たれながらも活躍し、その時の弾は生涯にわたり抜けなかったとまで伝わっている。
 天正5年(1577年)、家督を継ぐ。小田原征伐後に家康が関東に移されると、三河田原城より上野白井藩に移され2万石を与えられた。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)には三河岡崎藩に5万石を与えられた。
 慶長16年(1611年)3月22日、58歳で死去し、跡を長男の康紀が継いだ。墓所は静岡県掛川市横須賀の撰要寺。 

 天正19年(1591年)、元服して徳川家康から偏諱を授かり康紀と名乗った。慶長6年(1601年)、従五位下伊勢守に叙位・任官する。慶長16年(1611年)、父の死去により家督を継ぐ。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に参加し島野川と淀川の中洲から青屋口を攻撃した。戦後に豊臣氏と徳川氏の間で和議が結ばれると、松平忠明や本多忠政らと共に大坂城の堀埋め立て、石垣破壊の奉行を務めた。慶長20年(1615年)に和議が決裂して大坂夏の陣が起こると、前田利常の右翼方に陣取り、豊臣方の大野治房と戦い、武功を挙げている。
 その後は岡崎城の修築に務めた。元和9年(1623年)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の上洛に従って上洛したが、その後に病に倒れ、9月25日に死去した。享年45。跡を長男の忠利が継いだ。 

本多紀貞 本多利長

 元和4年(1618年)3月5日、1万石を与えられて白井藩主となり、同時に大番頭に任じられた。元和9年(1623年)4月26日に死去(一説に寛永元年(1624年)とも)。享年44。紀貞には嗣子がなかったため、白井藩本多氏は改易され、同時に白井藩も廃藩となり、白井城も破却された。

 

 正保2年(1645年)、父の死去で跡を継ぐ。このとき、岡崎藩6万石のうち5万石を継いで、残りの1万石は兄の助久と弟の利朗に分与した。同年6月27日、遠江横須賀へ移封される。しかし天和2年(1682年)2月23日、不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された(本多政利の改易に連座したとも)。後に改めて、出羽村山郡内に1万石を与えられている。
 元禄5年(1692年)12月16日、58歳で死去し、跡を甥で養嗣子の助芳が継いだ。 

本多助芳 本多助有

 寛文3年(1663年)5月、遠江城東郡4560石の旗本である本多助久の次男として江戸で生まれる。元禄5年(1692年)12月に叔父である村山藩主・本多利長が死去したため、その養子となり元禄6年(1693年)に家督を継いだ。
 元禄12年(1699年)6月に越後糸魚川藩に移封される。享保2年(1717年)2月11日には1万石を加増されて2万石にされた上で、信濃飯山藩に移封された。しかし千曲川の水害などもあって実収入は糸魚川よりはるかに少なくて藩財政は当初から苦しく、そのために領地替えなどの政治工作を行い、享保9年(1724年)に実現した。
 享保10年(1725年)4月14日に死去した。享年63。跡を3男の康明が継いだ。 

 正徳4年(1714年)6月、飯山藩の初代藩主・本多助芳の4男として生まれる。享保15年(1730年)に兄で第2代藩主の康明が死去したため、その養子として家督を継いだ。しかし生来から病弱だったため、元文2年(1737年)9月20日に死去した。享年24。実子がなかったため、分家旗本から助盈を養子に迎え、跡を継がせた。 
本多助受 本多助賢

 宝暦14年(1764年)5月4日、第4代藩主・本多助盈の長男・本多助之の長男として生まれる。助之は早世したため、助受が祖父・助盈の嫡子となった。安永3年(1774年)3月29日、助盈の死去により家督を相続した。安永9年5月1日、将軍・徳川家治に拝謁する。天明2年(1782年)12月19日、従五位下豊後守に叙任する。天明5年(1785年)8月から翌年8月まで大坂加番を務める。寛政元年(1789年)4月、日光祭礼奉行を務める。
 寛政6年(1794年)には大火が起こって領内で大被害を受け、さらにこの年に琉球使節との応対を任されていたにも関わらず、その使節の音楽を聴いていたときに失礼があったとして、寛政7年(1795年)まで出仕を停止させられている。寛政10年(1798年)にも大火で領内に大被害を受けた。
 文化3年(1806年)7月23日、隠居し、養子の助賢に家督を譲る。文政7年(1824年)に志摩守に遷任するが、直後の6月13日に江戸で死去した。享年61。 

 文化3年(1806年)2月、飯山藩第5代藩主・本多助受の婿養子となる。同年4月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年7月26日、養父・助受の隠居により、家督を相続する。同年12月16日、従五位下豊後守に叙任する。文化8年4月、日光祭礼奉行を命じられる。
 文化11年(1814年)8月4日奏者番に就任する。天保3年(1832年)2月9日、若年寄に就任する。天保12年(1841年)8月7日、若年寄を退任し、従四位下に昇進する。また、帝鑑間取締を命じられる。安政5年(1858年)4月22日、隠居し、先代・助受の3男で養子の助実に家督を譲るが、まもなく没した。

 

本多助実 本多助寵
 文政2年(1819年)3月29日、第5代藩主・本多助受の3男として江戸で生まれる。誕生当時、父・助受は既に家督を養子の助賢に譲って隠居の身だった。文政13年8月13日、助賢の養子となる。天保7年(1836年)12月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下伊勢守に叙任する。安政5年(1858年)4月22日、養父・助賢の隠居により、家督を相続した。元治元年(1864年)9月、奏者番に就任した。慶応2年(1866年)11月、奏者番を辞任した。慶応3年(1867年)4月4日、隠居し、長男の助成に家督を譲った。隠居にともない、恒山と号した。しかし、助成が慶応4年(1868年)に早世したため、8男の助寵に跡を継がせ、自らはその後見人となった。版籍奉還後の明治2年(1869年)9月2日、助寵は病気のために隠居し、助実が第10代藩主として再任し、飯山藩知事となった。その後は藩政改革に努めたが、明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県のため藩知事を免職された。明治6年(1873年)4月5日、再び隠居し、11男の助順に家督を譲った。明治10年(1877年)3月1日に死去した。享年59。

 嘉永7年(1854年)5月13日、第7代藩主・本多助実の8男として生まれる。慶応4年(1868年)7月23日、兄・助成の隠居により家督を相続した。しかし病弱だったため、政務は隠居していた父の助実が代行した。
 明治2年(1869年)6月2日、北越戦争出兵への賞典禄として、明治政府から5000両を賜る。同年6月22日、版籍奉還にともない、飯山藩知事に就任した。直後の8月14日に死去した。享年16。しかし、明治政府には死亡を隠し隠居届を提出した。そのため、公的には以下のような経歴になっている。同年8月24日、従五位となる。同年9月2日、隠居し、実父助実に家督を譲った。同年9月18日、死亡。