<藤原氏>北家 兼通流

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本多俊正 本多正信

 『寛政重修諸家譜』によれば、松平清康に仕えた本多正定の長男として誕生し、清康,広忠に仕えた、とある。
 はじめ松平家重臣・酒井忠尚に仕えた。永禄元年(1558年)に北三河衆が反乱を起こすと、元康は今川義元の命令で討伐にかかる。元康の初陣であるため忠尚家臣の俊正や大須賀康高,榊原長政(榊原康政の父親)といった歴戦の武将が付き従った。東広瀬城攻めでは、反乱の首謀者・三宅一族を率いる東広瀬城主・三宅高貞の討伐が始められる。大将は酒井忠尚と佐久間秀孝。酒井忠尚率いる第一軍に本多俊正,榊原長政,大須賀康高,高木重正。松平家次(梅坪城主)率いる第二軍に伊保城主で先の戦いで臣従した三宅政貞,細井勝宗。恩大寺祐一率いる第三軍に猿渡勘鉄斎,吉良義昭。中条常隆率いる第四軍に米津政信,伊奈貞政,碧海準行、その他松平信一や伊奈忠家,大河内基高らが従軍し、高貞を追い払う。
 永禄3年(1560年)に高貞の一門・三宅高清が東広瀬城にて反乱を起こすと再び出陣し、討伐している。
 俊正の主君・忠尚が永禄6年(1563年)に謀反を起こすと翌永禄7年(1564年)9月まで元康と戦った。この際、俊正らは徳川家に臣従している。同年三河一向一揆が起こると、一揆方に息子の正信,正重が付き、戦後、正信は逃亡、正重は臣従している。一方の俊正は元康方に付き、戦後は周鎭と称して元康の鷹匠となった。
 その後の動向は不明であり、元亀年間に没したとされる。享年は69とされる。

 はじめ鷹匠として徳川家康に仕えた。桶狭間の戦いの際に今川義元の命で丸根砦を攻める家康に従い、その合戦において膝に傷を負って以来足を引きずるようになったという。しかし永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟と共に家康に敵対した。そして一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えた後、諸国を流浪する。その間の動向は定かではない。有力説では加賀国に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたともされている。こうして諸国を流浪した末、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願した。やがて忠世の懸命のとりなしによって無事に徳川氏に帰参することとなった。帰参時期は諸説あって定かではない。早ければ姉川の戦いの頃、最も遅くとも本能寺の変の少し前の頃には正式に帰参が叶っていたようである。
 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって信長が横死すると、当時、堺の町を遊覧していた家康は伊賀越えを決意する。このとき、正信も伊賀越えに付き従っていたといわれている(ただし判明している34名の伊賀越えに同行した供廻の中に正信の名はない)。その後、家康が旧武田領を併合すると、奉行に任じられて本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼びかけ武田家臣団の精鋭を取り込み甲斐・信濃の実際の統治を担当した。天正14年(1586年)には従五位下佐渡守に叙位・任官された。天正18年(1590年)の家康移封とともに相模国玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。
 正信は、慶長3年(1598年)の秀吉死去の頃から家康の参謀として大いに活躍するようになり、家康が覇権奪取を行なう過程で行なわれた慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行った謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦及び川の増水に遭い、遅参している。この時、正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。『大久保家留書』によると、関ヶ原の戦い以降の徳川家の軍議で、家康の後継者を巡って、井伊直政は娘婿の松平忠吉を、大久保忠隣は秀忠を支持することを表明した。それに対して正信は長男の正純とともに結城秀康を支持することを表明したと伝わる。
 慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していたため、これを利用して、本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。
 慶長8年(1603年)に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。慶長10年(1605年)に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。しかしあまりに権勢を得たことは本多忠勝,大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。しかし家康の正信に対する信任が変わることは無く、慶長15年(1610年)には年寄衆からさらに特別待遇を受けて大老のような地位にまで昇進している。また、慶長17年(1612年)の岡本大八事件で一時的に武功派の巻き返しを受けたが、慶長18年(1613年)の大久保長安事件で大久保長安一党らを失脚させ、慶長19年(1614年)には政敵・大久保忠隣らを失脚させるなど、大きな権力を振るった。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも、家康に多くの献策をしている。しかし高齢のため、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、歩行も困難であったとされている。元和2年(1616年)4月、家康が死去すると家督を嫡男の正純に譲り隠居して一切の政務から離れ、6月7日に家康の後を追うように死去した。享年79。
 関ヶ原の後、家康は三成の嫡男・重家の処遇に悩まされた。重家は僧籍に入って恭順を誓っていた。家康は正信に相談し、正信は「他の事情はどうあれ、重家には赦免する理由があります。親父の治部は我が徳川家に大功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう。治部は西国大名を糾合して関ヶ原という無用の戦を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は全て徳川家に服すことになったのです」と答えた。家康は「一理ある」と重家を赦免した。
 家康は若い頃から家臣の諫言を大事にしたが、浜松時代に正信と同席していた際、家康の前である家臣が懐から一通の書状を取り出して「かねてよりお諫めしたいと思っていた事を文書にしました」と述べて読んだ。家康は大いに喜んで頷きながら聞き、読み終わると「汝の志に感心した。これからも心おきなく告げよ」と言って下がらせた。正信は「只今の諫言に用うるに足るものはありません」と述べる。すると家康は気色ばんで「そうではない。己の過ちは知らぬ間に過ぎるものだ。国を領し、人を治める身には、過ちを告げ知らして諌めてくれる者は少ない。へつらう者が多く、違うと意見する者はおらぬのだ。用いる用いないは別として、彼の忠なる心が嬉しい」と述べた。それを聞いた正信は嬉し涙を流し、このことを後に嫡子の正純に知らせたと伝わる。
家康の下で権勢を振るった正信だが、その領地は相模玉縄に2万2000石(一説に1万石)しか領していなかった。正信は常々、子の正純に領地は3万石までとし、それ以上は決して受けてはならぬと説いていた(正純は、父同様に権勢を牛耳ったが、その遺志に叛いて宇都宮15万5000石もの大封を得たために後に宇都宮城釣天井事件により、失脚を余儀なくされている)。関ヶ原の後、加藤嘉明に50万石への加増が取り沙汰されたときも正信が加増に強く反対したため嘉明は20万石に留まった。この話をのちに聞いた嘉明は正信を怨んだが、正信は嘉明の下へ赴き、「貴殿の事を考えての事でござる。貴殿は豊臣家に深く恩顧があり、また智勇は衆を抜いて優れておられる。過ぎたる加増は人々の疑いを招きます。貴殿ほどの武将が大国の主となれば、必ずや人々から疑惑を受けて災いを招きますぞ」と述べたところ、嘉明は正信に返す言葉が無かったという。
 他にも正信は正純に対し、「武家は軍法を諸道の根本とするのだ。軍法というは軍事ばかりに用いるものではない。軍法は常の備えである。善い政治は勝ち、悪い政治は負ける。勝負の本は国を治める事にある」と説き、士にしてその仕える家の老職を預かる者は、農工商をもって木の根とし、大事に育てて、これを慈しめ、と述べたと伝わる。
 『三河物語』では、著者が政敵であった大久保氏であることから、正信を悪役として描かれていることが多い。

本多正純  本多正勝

 父・正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、三河国を追放されて大和国の松永久秀を頼っていたとされるが、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたようである。父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えた。父と同じく智謀家であったことから家康の信任を得て重用されるようになり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かっている。
 慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を3男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。
 慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡,藤津郡,彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であったことが判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化することになる。
 慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。
 元和2年(1616年)、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老であることを恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。なお、家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000石の大名となる。
 元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。これにより、周囲からさらなる怨みを買うようになる。ただし、正純自身は、過分な知行であり、また政敵の怨嗟,憤怒も斟酌し加増を固辞していた。幕僚の世代交代が進むなか、正純は代わらず幕府で枢要な地位にあったが、秀忠側近である土井利勝らの台頭で正純の影響力,政治力は弱まっていった。
 元和8年(1622年)8月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純は上使として山形城の受取りに派遣された。9月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収した。しかしそのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が正純糾問の使者として後を追っていた。 伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。正純は最初の11か条については明快に答えたが、そこで追加して質問された3か条については適切な弁明ができなかった。その3か条とは城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる。先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽の内、由利郡に5万5,000石を与える、という代命を受けた。この時、使者として赴いた高木正次,伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その5万5,000石を固辞した。これが秀忠の逆鱗に触れることとなった。高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒し、本多家は改易され、身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国横手に流罪となった。後に1,000石の捨て扶持を与えられている。正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。
 この顛末は、家康,秀忠の二元政治時代、本多親子の後塵を拝して正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉・加納御前(亀姫)が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。忠隣の親戚に当たる大久保忠教(彦左衛門)は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという。
 また、秀忠自身も父・家康の代から自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていた。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取った。
 以下の歌は、失脚した正純が幽閉された横手・上野台で詠んだものと伝えられる。
    日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく
 正純父子は牢にこそ入らなかったものの、逃亡防止のために住居をすべて板戸で囲い、まともに日もささない状態で、軟禁と呼ぶには過酷な生活であったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去した。享年73。

 江戸幕府初期の幕閣中心人物である本多正純の嫡男として生まれる。慶長16年(1611年)叙任。大坂の役にも参戦し、慶長20年(1615年)の天王寺・岡山の戦いでは首級を挙げた。
 元和8年(1622年)に父正純が改易されると連座して出羽由利郡に配流され、寛永元年(1624年)には佐竹義宣のもとに移された。その後、赦免されることなく寛永7年(1630年)に35歳で死去した。長男・正好は武州那賀郡小平に居住。次男・正之は後に3000石の旗本として家を再興している。墓所は秋田県横手市の正平寺。

和田正好 本多忠純

 本多正勝の長男として江戸屋敷で生まれる。同年の本多家改易により、正勝も父・正純に連座し、出羽国横手に配流となった。正好は母親の実家である摂津尼崎藩戸田家に身を寄せ、寛永12年(1635年)に戸田家の領地替えに伴い美濃大垣に移住した。寛永17年(1640年)、17歳の時に母親の元を離れ、本多家とは親戚筋であった安藤重長の客分として上野高崎藩に身を置いた。この頃に本多姓を改め、和田姓を名乗ったという。
 明暦3年(1657年)、34歳の時に旗本安藤彦四郎に招聘され、知行地であった武蔵国那珂郡小平に移り住み、代官を務める。元禄15年(1702年)4月に死去した。享年80。
 なお、寛文4年(1664年)、尾張犬山に住していた異母弟の正之が旗本として赦免され嫡流を称したために、幕臣身分を離れた正好については『寛政重修諸家譜』に記述があるものの、具体的な生没年などは記載されていない。

 若い頃から父や兄と共に徳川家康に仕え、慶長10年(1605年)には下野榎本に1万石を与えられて大名に列し、榎本藩を立藩した。藩政においては小山氏の旧臣を新たに家臣として召抱えたり、城下町を建設したりと藩政の基盤を固めている。知略家だった父や長兄の正純と対照的に、次兄の政重と同様に武辺の人物であった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても武功を挙げるが、毛利勝永隊と激突した際に大損害を与えられて敗走している。戦いの後、新たに1万8000石を加増され、2万8000石の大名となった。
 性格においては短気な上に粗暴で、家臣を殺害することも珍しくないという問題人物だった。これが災いして寛永8年(1631年)12月13日、わずかな失敗から殺されることを恐れた家臣の一人・大助によって暗殺された。享年46。長男の忠次は寛永3年(1626年)に17歳で早世していたため、跡を甥で養嗣子の政遂が継いだ。

本多正重 本多正氏

 天文14年(1545年)、本多俊正の4男として生まれる。兄・正信と共に松平家康の家臣として仕えていたが、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では一揆方の武将として兄と共に家康に敵対した。しかし永禄7年(1564年)に一揆が鎮圧されると家康に帰参した。その後は徳川家の武将として、遠江掛川城攻めをはじめとして、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の武田信玄との一言坂の戦い、三方ヶ原の戦いでは殿軍を務めて武功を挙げた。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加して武功を挙げた。
 ところがその直後に徳川家から出奔して浪人となり、滝川一益に仕えて播磨神吉城攻めに参加している。そして一益のもとを去って前田利家に属して佐々成政と戦い、武功を挙げたが、前田家から去って会津に移った蒲生氏郷に仕えた。しかし文禄4年(1595年)に氏郷が死去すると、蒲生家でお家騒動が発生したため蒲生家から去った。そして慶長元年(1596年)に徳川家に帰参している。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは検使を務めた。その功により家康から慶長7年(1602年)に近江国坂田郡内に1,000石を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川秀忠に属して参謀として功を挙げた。その功により、元和2年(1616年)7月に下総国相馬郡舟戸に1万石を与えられ、大名となった。
 翌年の元和3年(1617年)7月3日に死去。享年73。長男の正氏は秀次事件で殉死し、次男の正包も早世していたため、外孫で養子の正貫が後を継いだ。しかし正重の死後、2,000石を削減されたため、舟戸藩は正重1代のみで消滅してしまった。減封は正重の遺言と言われる。
 知略で有名な兄・正信と違って剛勇かつ槍の名手で、織田信長をして「海道一の勇士」と評された。三河武士らしく主君である家康にも遠慮なく何でもずばずば言うため、「口脇の黄なるほどにて言われざる事を」と疎まれていた。家康は正重を疎んだが、「今に心おとなしからず。あの心にてはいかで大名には成さるべき」と、戦国武将としての器量は認めていた。徳川家から出奔したのは家康に疎まれていたためとされているが、織豊系大名に対する間諜的役割もあったのではないかと思われる。ただし、どの大名にも召し抱えられたのはそれだけ武勇が認められていたということでもある。官位を生涯受けず、通称の三弥あるいは三弥左衛門で通した。

 元亀元年(1570年)、本多正重の長男として生まれる。天正16年(1588年)から徳川家康の近習として仕え、陸奥の九戸政実攻め、朝鮮出兵における肥前名護屋城詰めなどに随従した。しかし文禄元年(1592年)、徳川家から出奔している。理由は諸説あって定かではないが、父と同じようにその頑固な性格を疎まれたためとされている。
 その後、羽田正親と懇意になり、正親が豊臣秀次の重臣だったことから、その推挙を受けて秀次の重臣となった。文禄4年(1595年)、秀次事件により秀次が自害すると、正親と共に殉死した。享年26。

本多正永

 正保2年(1645年)11月11日、大身旗本・本多正直の長男として江戸で生まれた。延宝5年(1677年)に家督を相続したが、弟の正方に1000石を分与したため、7000石を知行した。元禄元年(1688年)に寺社奉行となったことから1万石に加増され、舟戸藩主となった。元禄9年(1696年)には若年寄となり、元禄14年(1701年)に上総・下総国内で5000石を加増された。元禄16年(1703年)に上野国沼田へ移封された。宝永元年(1704年)には老中となって、1万石を加増され、最終的には4万石を領した。沼田藩政では、以前の領主である真田信利の悪政で荒廃していた沼田藩の再興に務めている。
正徳元年(1711年)5月19日、67歳で死去し、跡を甥で養嗣子の正武が継いだ。