F537:本多俊正 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多俊正 ― 本多正矩 | F539:本多正矩 | ● |
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本多正温 | 本多正意 |
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明和3年(1766年)12月29日、第3代藩主・本多正供の長男として江戸で生まれる。安永6年(1777年)に父が死去したため家督を継ぎ、正徳と名乗った。しかし幼少のため、藩政は叔父の黒田直邦が後見人として代行した。天明2年(1782年)12月18日に従五位下・伯耆守に叙位・任官する。成長してからは親政を行ない、天明7年(1787年)に田沼意次が改易されると、相良城の受け取り役を務めた。寛政元年(1789年)5月10日に正温と改名する。 |
天明4年(1784年)4月5日に第4代藩主・本多正温は正室の数(永井直珍の娘)と離婚したが、このとき数はすでに妊娠していた。このため、数は実家の永井家の江戸屋敷に戻り、9月16日に男児を出産した。これが正意である。後にこれを知った正温は正意を引き取り、自らの世子に指名した。 |
本多正寛 | 本多正訥 |
文化5年(1808年)5月9日、第5代藩主・本多正意の長男として江戸で生まれる。文政8年(1825年)12月16日、従五位下・豊前守に叙位・任官する。文政12年(1829年)、父の死去により家督を継ぐ。 |
田中藩第5代藩主・本多正意の7男(6男とも)として生まれる。安政3年(1856年)12月22日、兄・正寛の養子となる。鷹司松平信発の養女(秋山正光の娘)・文子を正室に迎えるが、文久2年(1862年)7月21日に死別。継室として、稲垣長剛の次女・鋭を迎えた。安政4年(1857年)11月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下伯耆守に叙任する(後に紀伊守に改める)。万延元年(1860年)閏3月16日、正寛の死去を受けて家督を継ぎ、田中藩第7代藩主となる。 |