<藤原氏>北家 兼通流

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本多正温 本多正意

 明和3年(1766年)12月29日、第3代藩主・本多正供の長男として江戸で生まれる。安永6年(1777年)に父が死去したため家督を継ぎ、正徳と名乗った。しかし幼少のため、藩政は叔父の黒田直邦が後見人として代行した。天明2年(1782年)12月18日に従五位下・伯耆守に叙位・任官する。成長してからは親政を行ない、天明7年(1787年)に田沼意次が改易されると、相良城の受け取り役を務めた。寛政元年(1789年)5月10日に正温と改名する。
 寛政6年(1794年)、紀伊から紀州みかんを取り入れて藩内に流通させた。寛政9年(1797年)、松江藩士だった武術家の仙田政芳を登用して武芸を奨励し、寛政11年(1799年)に幕命により、湯島聖堂の再建工事を監督した。寛政12年(1800年)7月13日、田中騒動が起こったため、家督を長男の正意に譲って隠居した。この騒動の細部には不明な点が多いが、正温が武芸を奨励するために登用した金田忠勝ら新参と譜代の家臣が主導権をめぐって対立して新参が追放されたためとも、後継者の正意の生まれに問題があって騒動が起こったともいわれる。天保2年(1831年)5月に紀伊守に遷任する。天保9年(1838年)閏4月10日に死去した。享年73。

 天明4年(1784年)4月5日に第4代藩主・本多正温は正室の数(永井直珍の娘)と離婚したが、このとき数はすでに妊娠していた。このため、数は実家の永井家の江戸屋敷に戻り、9月16日に男児を出産した。これが正意である。後にこれを知った正温は正意を引き取り、自らの世子に指名した。
 寛政12年(1800年)、父が田中騒動で隠居したため家督を継ぎ、12月16日に従五位下・豊前守に叙位・任官する。文化5年(1808年)6月9日に奏者番に任じられる。
 藩政では小野成誠や石井縄斉らを登用して文武を奨励している。また、江戸留学を奨励し、金銭面で苦しい者に関しては現代の奨学金制度のような優遇措置を設けている。さらに化政期には俳諧が盛んになり、『花のさち』などが刊行されるなど、田中藩の文化は全盛期を迎えている。しかし文化13年(1816年)11月には増田五郎右衛門を中心とした百姓一揆が起こり、増田を処刑する代わりに百姓側の要求を受け入れざるを得なくなった。
 文政5年(1822年)7月12日に寺社奉行に任じられ、文政8年(1825年)4月28日には若年寄に任命され、5月6日には遠江守に遷任する。文政12年(1829年)5月27日に死去した。享年46。跡を長男の正寛が継いだ。

本多正寛  本多正訥

 文化5年(1808年)5月9日、第5代藩主・本多正意の長男として江戸で生まれる。文政8年(1825年)12月16日、従五位下・豊前守に叙位・任官する。文政12年(1829年)、父の死去により家督を継ぐ。
 天保2年(1831年)から財政再建を中心とした藩政改革を行ない、倹約や風紀取締り,勧農政策や作物生育の障害となる雑林の伐採、油木や薪炭用の植樹の奨励、酒屋などに冥加金を課してその金銭を貧民救済に当てるなどしている。天保3年(1832年)に大蔵永常を登用している。
 天保7年(1836年)8月17日に奏者番に任じられている。天保8年(1837年)に藩校・日知館を創設し、さらに洋式軍制の導入や銃隊の編成、天保14年(1843年)からは大砲を鋳造するなどしている。嘉永7年(1854年)11月の大地震で大被害を受け、安政2年(1855年)から救済に務めている。
 安政7年(1860年)2月17日に死去した。享年53。跡を弟で養子の正訥が継いだ。武術や書画に優れる一方で、百姓出身の古谷道生を登用するなど、藩政改革で実力を発揮した名君といわれる。

 田中藩第5代藩主・本多正意の7男(6男とも)として生まれる。安政3年(1856年)12月22日、兄・正寛の養子となる。鷹司松平信発の養女(秋山正光の娘)・文子を正室に迎えるが、文久2年(1862年)7月21日に死別。継室として、稲垣長剛の次女・鋭を迎えた。安政4年(1857年)11月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下伯耆守に叙任する(後に紀伊守に改める)。万延元年(1860年)閏3月16日、正寛の死去を受けて家督を継ぎ、田中藩第7代藩主となる。
 文久2年(1862年)11月4日、新設された学問所奉行の一人に就任する(相役は秋月種樹)。元治元年(1864年)7月21日、駿府城代に就任。戊辰戦争中の慶応4年(1868年)2月12日、尾張藩が派遣した勤皇誘引使・都筑九郎右衛門に勤皇証書を渡して、駿府城引渡しに同意した。徳川宗家当主・徳川家達が駿河国,遠江国に移されると(静岡藩)、6月13日に家達に駿府城を引き渡す。また徳川家の静岡入封にともない、田中藩4万石には新政府から安房国・上総国に4万石の代替地を与えられ、同年7月13日移転を命じられた(長尾藩)。
 新領地の藩庁は、藩士で兵学者の恩田仰岳の選定により、白浜に近い安房国長尾村滝口に陣屋を建設して置くこととなった。移転先の準備が整うまで正訥や藩士の多くは旧領内藤枝宿の寺院に止宿した。明治2年(1869年)2月、藩校日知館を安房に移転。明治2年(1869年)6月20日、正訥は版籍奉還を行なって知藩事となる。この年の夏、台風によって建設中の長尾陣屋が倒壊。もともと長尾での陣屋建設は藩内に反対論が多く、恩田仰岳は譴責処分となり、翌明治3年(1870年)1月以降、館山に近い北条村鶴ヶ谷に新たな藩庁(北条陣屋)や藩士居住地の建設が進められた。知藩事正訥は明治3年(1870年)5月に北条陣屋に着任した。
 明治3年(1870年)12月14日、隠居して養子・正憲に家督を譲った。明治18年(1885年)11月1日、59歳で死去した。
 博学の藩主として知られ、高鍋藩主・秋月種樹(古香),唐津藩主・小笠原長行(明山)とともに「天下の三公子」と称された。著書に『清史逸話』がある。