<藤原氏>北家 兼通流

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本多政重 本多政長

  天正8年(1580年)、徳川氏の家臣・本多正信の次男として生まれる。天正19年(1591年)、徳川氏の家臣・倉橋長右衛門の養子となる。しかし慶長2年(1597年)に徳川秀忠の乳母・大姥局の息子・川村荘八(岡部荘八)を諍いの末、斬り殺して出奔し大谷吉継の家臣となった。その後、宇喜多秀家の家臣となり、2万石を与えられ正木左兵衛と称した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦したが、西軍が敗れたために逃走、近江堅田へ隠棲した。西軍方ではあったが臣下の立場でもあり、正信の子であったためともされるが、罪には問われなかった。その後、福島正則に仕えたがすぐに辞去し、次に前田利長に3万石で召し抱えられた。しかし慶長8年(1603年)、旧主・秀家が家康に引き渡されたことを知ると、宇喜多氏縁戚の前田家を離れた。
 この頃、父・正信への接近を図っていた上杉景勝の重臣・直江兼続は、政重を婿養子に迎えたいと乞い、慶長9年(1604年)8月、兼続の娘・於松を娶り、景勝の偏諱を受け直江大和守勝吉と称した。慶長10年(1605年)に於松が病死したが、兼続の懇願により養子縁組は継続され、慶長14年(1609年)に兼続は弟・大国実頼の娘・阿虎を養女にして嫁がせた(実頼は兼続が政重を養子に迎えることに反対し、政重を迎えに来た兼続の家臣を斬殺して出奔していた)。この頃から本多安房守政重と名乗る。
 慶長16年(1611年)に上杉氏の下から離れ、慶長17年(1612年)に藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参して3万石を拝領し、家老としてまだ年若い前田利常(利長の弟)の補佐にあたった。妻の阿虎は加賀にいる政重の許へ向かったが、この時に本庄長房(政重以前の兼続の養子)ら多くの者がこれに従って政重に仕えた。加賀本多家中の半数以上を旧上杉・直江家臣出身者が占めるのはこのためであり、これには上杉家の人員整理の思惑もあったようで、以後も政重と上杉,直江家との親交は続いた。
 その後は加賀藩によく仕え、慶長18年(1613年)、前田氏が江戸幕府から越中国の返上を迫られると、これを撤回させた功により、2万石を加増され5万石となった。加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられた際には江戸に赴いて懸命に釈明することで懲罰を回避し、この功績を賞されてさらに2万石を加増された。慶長19年(1614年)冬からの大坂の陣にも従軍したが、真田信繁に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、信繁に名を成さしめた。慶長20年(1615年)閏6月3日、従五位下安房守に叙任された。
 寛永4年(1627年)4月20日、嫡男・政次が18歳で死去し、6月10日には正室の阿虎も死去した。同年、西洞院時直の娘と再婚する。その後、前田光高,前田綱紀に至るまで家老として補佐にあたった。正保4年(1647年)3月、病を理由に隠居して大夢と号し、5男の政長に家督を譲り、同年6月3日に死去した。享年68。
 父や兄は知略に優れた人物であったが、政重は豪胆で武勇に優れていたため、出奔を重ねても諸大名から招かれたとされているが、一説には正信の意を受けて徳川家の間諜役を務め、諸大名の動静を探っていたともいわれている。

 本多政重の4男として生まれる。兄たちが早世、あるいは他家の養子となったために嫡男となる。正保3年(1646年)、前田利常の娘・春姫と結婚する。正保4年(1647年)、父の隠居により家督相続する。慶安3年(1650年)正室自性院(春姫)死去。慶安5年(1652年)江戸城で将軍・徳川家光に拝謁する。
 承応2年(1653年)鷹狩のため、政長が富山に宿泊した際、本多家の中間が富山藩士・片岡平右衛門と争い、刀を奪い取り辱める事件が起こる。富山藩主・前田利次は、片岡平右衛門に切腹を命じ、政長は中間5人を死罪として利次に謝罪するも許されなかった。加賀藩主利常も両者の和解を促すも、利次の怒りは解けなかった。大聖寺藩主・前田利治からも助言があり、政長は事態収拾のために、家老・藤井雅楽を切腹させ、利次に改めて深く謝罪し、利常からも再三慰謝があったことから和解することとなった。
 万治元年(1658年)江戸城修復の課役を務める。同年、紀州藩主・徳川頼宣に拝謁し、その才を認められ親しく交際した。寛文11年(1671年)菩提寺である大乗寺に月舟宗胡を招いて住持とする。貞享5年(1688年)大年寄(大老)となる。元禄4年(1691年)父・政重、横山長知の慶長20年(1615年)叙爵以降途絶えていた、前田家陪臣の叙爵を幕府より許され、従五位下安房守に任官。元禄14年(1701年)隠居して家督を嫡男・政敏に譲り、隠居料3000石を賜る。宝永5年(1708年)8月卒。享年78。 次男・政孝は幕府の証人となるが15歳で早世。3男・政則,4男・政冬は家臣となる。5男・政寛は、父の隠居料3000石を相続して分家加賀藩人持組となる。6男・甚之助は、八幡新善法寺の住職行清権僧正となる。
 茶道宗和流2代・金森方氏の門人の茶人としても知られ、方氏の父・宗和に野々村仁清作の御室焼入手の仲介を受けている。

本多政昌  本多政行

 享保8年(1723年)兄・政敏の死去により家督と5万石の知行を相続する。人持組頭,年寄を務めた。享保8年(1723年)12月、従五位下安房守に叙任。享保11年(1726年)公儀御用(宗門方御触)。享保15年(1730年)金沢城代となる。
 寛保2年(1742年)青地礼幹より、藩主・前田吉徳側近大槻朝元(伝蔵)の非行を弾劾する書状を届けられる。礼幹は、本多政重の長男・政次の曾孫で、当時前田直躬と共に大槻排斥を強く訴えていた一人である。年寄である政昌の力により大槻排除を期待してのことであったが、大槻が失脚するのは礼幹の没後、藩主・吉徳の死去を待たねばならなかった。
 延享元年(1744年)藩主・吉徳より、不和であった分家・本多頼母政恒との和解を命じられる。延享3年(1746年)加賀騒動の当事者大槻伝蔵を屋敷に召還し蟄居を申し渡す。朝元は政昌の組であった。延享5年(1748年)5月18日没。享年60。家督は一門本多政冬の子・政行が相続した。

 享保13年(1728年)11月14日本多家第2代当主・政長の4男・政冬の子として金沢に生まれる。延享5年(1748年)養父・政昌の死去により家督と5万石の知行を相続する。寛延元年(1748年)12月従五位下安房守に叙任。宝暦3年(1753年)藩主・前田重靖の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川家重に拝謁する。宝暦6年(1756年)安房守を遠江守と改める。宝暦7年(1757年)金沢城代となる。宝暦12年(1762年)安房守に復す。寛政8年(1796年)2月隠居して家督を嫡男・政成に譲る。寛政9年(1797年)11月23日没。政房は一族の旗本・本多政寛の婿養子となった。
本多政礼 本多政和
 寛政元年(1789年)12月30日、加賀藩家老本多政成の子として生まれる。享和3年(1803年)父政成の死去により家督と5万石の知行を相続する。藩主前田斉広に仕え年寄,人持組頭,藩財政の最高責任者・勝手方主付等を歴任。文化元年(1804年)12月従五位下安房守に叙任。文化5年(1808年)金沢城二の丸御殿の焼失により屋敷を藩主居館とする。文政3年(1820年)7月13日没。家督は長男・政和が相続した。次男・連弘は外祖父・長連愛の養子となって家督を継いだ。3男・政醇は500石の分知を受けて分家した。政醇の嫡男・本多弥一政得は、従兄弟の宗家・本多政均の家老となり、明治2年(1869年)政均が暗殺されると、明治4年(1871年)15人の同士と共に仇討ちを遂げた。  加賀藩家老・本多政礼の長男として生まれる。文政3年(1820年)父の死去により家督と5万石の知行を相続する。文政11年(1828年)播磨守に任官。天保5年(1834年)前田斉広の娘・寿々姫と結婚。天保14年(1843年)に執政・奥村栄実が死去すると、年寄・前田孝本とともに藩政を主導する。弘化4年(1847年)9月5日没。享年35。家督は嫡男の政通が相続した。次男・政均は兄・政通の跡を継ぎ、6男・政養は分家3000石本多主水の養子となり、維新後は岩越鉄道社長を務めた。
本多政均 本多政以

 加賀本多家は本多正信の次男・本多政重の子孫であり、加賀藩の中でも大身で陪臣ながら5万石を領していた。
 安政3年(1856年)に兄・政通が夭折したため家督を継ぎ、万延元年(1860年)に城代家老に任じられた。藩主・前田斉泰に寵愛され、斉泰と共に西洋軍制の導入など改革を積極的に推し進めた。しかし尊王攘夷派に対しては冷酷で、元治元年(1864年)に禁門の変が起こると、尊攘派と親しかった斉泰の世子・前田慶寧の謹慎処分をはじめ、藩内における尊攘派の処罰を担当した。慶応2年(1866年)からは薩摩藩などとの交渉役を務めている。
 しかし、かつての尊攘派に対する厳し過ぎる処分は彼らの恨みを買うことになり、明治2年(1869年)に金沢城二の丸御殿において井口義平,山辺沖太郎に暗殺された。享年32。

 元治元年(1864年)10月21日加賀藩家老・本多政均の長男として生まれる。明治2年(1869年)父・政均が暗殺され5歳で家督相続。
明治24年(1891年)葵製糸場を創業、明治26年(1893年)羽二重機業場に発展させた。明治30年(1897年)石川県農工銀行頭取となる。明治33年(1900年)従五位・男爵に叙され華族となる。明治37年(1904年)貴族院議員。大正10年(1921年)7月16日没。享年58。家督は長男の政樹が相続した。次男基連は男爵・長克連の養子となり家督を相続した。

本多政恒

 宝永2年(1705年)加賀藩家老・本多政冬の子として生まれる。享保11年(1726年)若年寄席見習を仰せつかる。享保12年(1727年)若年寄となる。享保13年(1728年)父の死去により家督と知行1万1000石を相続。元文元年(1736年)家老となる。延享元年(1744年)藩主・前田吉徳より、不和であった本家の本多政昌との和解を命じられる。寛延3年(1750年)家老を免じられる。
 宝暦10年(1760年)10月6日死去。享年56。家督は本多伊織政則の子・政康が養子となって相続した。