F537:本多俊正 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多俊正 ― 本多政重 | F538:本多政重 | ● |
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本多政重 | 本多政長 |
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天正8年(1580年)、徳川氏の家臣・本多正信の次男として生まれる。天正19年(1591年)、徳川氏の家臣・倉橋長右衛門の養子となる。しかし慶長2年(1597年)に徳川秀忠の乳母・大姥局の息子・川村荘八(岡部荘八)を諍いの末、斬り殺して出奔し大谷吉継の家臣となった。その後、宇喜多秀家の家臣となり、2万石を与えられ正木左兵衛と称した。 |
本多政重の4男として生まれる。兄たちが早世、あるいは他家の養子となったために嫡男となる。正保3年(1646年)、前田利常の娘・春姫と結婚する。正保4年(1647年)、父の隠居により家督相続する。慶安3年(1650年)正室自性院(春姫)死去。慶安5年(1652年)江戸城で将軍・徳川家光に拝謁する。 |
本多政昌 | 本多政行 |
享保8年(1723年)兄・政敏の死去により家督と5万石の知行を相続する。人持組頭,年寄を務めた。享保8年(1723年)12月、従五位下安房守に叙任。享保11年(1726年)公儀御用(宗門方御触)。享保15年(1730年)金沢城代となる。 |
享保13年(1728年)11月14日本多家第2代当主・政長の4男・政冬の子として金沢に生まれる。延享5年(1748年)養父・政昌の死去により家督と5万石の知行を相続する。寛延元年(1748年)12月従五位下安房守に叙任。宝暦3年(1753年)藩主・前田重靖の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川家重に拝謁する。宝暦6年(1756年)安房守を遠江守と改める。宝暦7年(1757年)金沢城代となる。宝暦12年(1762年)安房守に復す。寛政8年(1796年)2月隠居して家督を嫡男・政成に譲る。寛政9年(1797年)11月23日没。政房は一族の旗本・本多政寛の婿養子となった。 |
本多政礼 | 本多政和 |
寛政元年(1789年)12月30日、加賀藩家老本多政成の子として生まれる。享和3年(1803年)父政成の死去により家督と5万石の知行を相続する。藩主前田斉広に仕え年寄,人持組頭,藩財政の最高責任者・勝手方主付等を歴任。文化元年(1804年)12月従五位下安房守に叙任。文化5年(1808年)金沢城二の丸御殿の焼失により屋敷を藩主居館とする。文政3年(1820年)7月13日没。家督は長男・政和が相続した。次男・連弘は外祖父・長連愛の養子となって家督を継いだ。3男・政醇は500石の分知を受けて分家した。政醇の嫡男・本多弥一政得は、従兄弟の宗家・本多政均の家老となり、明治2年(1869年)政均が暗殺されると、明治4年(1871年)15人の同士と共に仇討ちを遂げた。 | 加賀藩家老・本多政礼の長男として生まれる。文政3年(1820年)父の死去により家督と5万石の知行を相続する。文政11年(1828年)播磨守に任官。天保5年(1834年)前田斉広の娘・寿々姫と結婚。天保14年(1843年)に執政・奥村栄実が死去すると、年寄・前田孝本とともに藩政を主導する。弘化4年(1847年)9月5日没。享年35。家督は嫡男の政通が相続した。次男・政均は兄・政通の跡を継ぎ、6男・政養は分家3000石本多主水の養子となり、維新後は岩越鉄道社長を務めた。 |
本多政均 | 本多政以 |
加賀本多家は本多正信の次男・本多政重の子孫であり、加賀藩の中でも大身で陪臣ながら5万石を領していた。 |
元治元年(1864年)10月21日加賀藩家老・本多政均の長男として生まれる。明治2年(1869年)父・政均が暗殺され5歳で家督相続。 |
本多政恒 | |
宝永2年(1705年)加賀藩家老・本多政冬の子として生まれる。享保11年(1726年)若年寄席見習を仰せつかる。享保12年(1727年)若年寄となる。享保13年(1728年)父の死去により家督と知行1万1000石を相続。元文元年(1736年)家老となる。延享元年(1744年)藩主・前田吉徳より、不和であった本家の本多政昌との和解を命じられる。寛延3年(1750年)家老を免じられる。 |