F525:本多助秀 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多信正 | F535:本多信正 | ● |
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本多富正 | 本多重次 |
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元亀3年(1572年)、徳川氏の家臣・本多重富の子として三河国で生まれた。家康の子・秀康が豊臣秀吉の養子という形での人質となり大坂へ送られることになった際、徳川氏は重次の嫡男の仙千代(後の本多成重)らを附属同行させたが、翌年に重次によって仙千代に代わり、甥である源四郎(富正)が交代させられた。のちには秀康の4男を養子に貰い受けたりもしている(早世)。秀康が下総国の結城晴朝の養子になると(結城秀康)、富正はここで俸禄100石を受け、以降結城家が越前国に移動するまでに3千石までに加増された。文禄・慶長の役の際は名護屋城に在陣して朝鮮半島へは渡航することはなかった。関ヶ原の戦いの際は秀康と共に宇都宮に在陣していた。 |
通称の作左衛門とその勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。天野康景,高力清長と共に徳川家康の三河時代からの三河三奉行の一人で、行政面に力を発揮した。法に対して厳格な人物で、他人に対しても厳しかった(間違っていると思えば、主君である家康に対してすら激しく指摘した)が、恩賞に対しては公平清廉で、法令についても仮名書きでわかりやすく書いて民衆に触れやすいように記した。奉行としての行政の功績だけではなく、三河一向一揆鎮圧戦などで大いに活躍し戦功を挙げた。また、三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだという逸話も伝わる。小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。しかし、小田原征伐が終わって、家康が北条氏旧領の関東に移されてから後に豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。家康の次男・於義丸(後の結城秀康)と共に人質として秀吉に差し出されていた息子・仙千代(後の本多成重)を「母親の看病をさせたい」と嘘をついて呼び戻したことや、秀吉の生母・大政所が人質として家康に差し出された際、大政所を粗略に扱い、大政所のいる建物の周辺に薪を大量に積みあげ、もし上方で家康の身に変事があればただちに大政所を焼き殺す姿勢を見せたこと、また、小田原征伐からの帰阪の途上、秀吉が岡崎城に立ち寄った際に三度の催促にもかかわらず城将の重次が迎えに出ず、これらが秀吉の不興を買った。その後、蟄居先が下総国相馬郡井野に変更され、文禄5年(1596年)7月16日、68歳で死去。墓所は茨城県取手市にある茨城県指定史跡「本多重次墳墓」。福井県坂井市丸岡町の本光院にも墓がある。 |
本多恒久 | 本多敬義(釣月) |
元禄7年(1694年)正月、新知300石を賜り藩主・松平吉品の近習となる。元禄9年(1696年)に兄・富敬が死去したため、その2500石の家督を相続した。宝永2年(1705年)家老となる。 |
高知席本多修理家第10代。福井藩士・菅沼左門高次の子として生まれる。天保2年(1831年)福井藩家老・本多方恭の養子となる。 |
本多成重 | 本多重益 |
幼名は仙千代で、父・重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙として知られる、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙である。徳川氏に仕え、慶長7年(1602年)に近江国蒲生郡内2000石を加増され5000石となる。慶長18年(1613年)に松平忠直の付家老となり、丸岡4万石を領して従兄弟の本多富正と共に若年の忠直を補佐した。大坂の陣では武功を挙げた。慶長20年(1615年)閏6月19日、従五位下飛騨守に任じられる。 |
延宝4年(1676年)、父の死去により家督を継ぐ。延宝5年(1677年)に従五位下・飛騨守に叙任する。重益は信仰心は厚い人物だったが、藩主としては暗愚で、藩政は家臣に任せて自らは酒色に溺れたという。このため、家臣団内部で藩政の実権をめぐっての争いが起こる。太田又八は暗愚な重益を隠居させて弟の重信を擁立しようとした(重信は早世したため、のちに重修に白羽の矢が立つことになる)。これに対して本多織部は暗愚な重益を傀儡として、自らは実権を掌握して思うがままに藩政を操ろうとした。この両派による争いは激化し、幕府も捨て置けず、元禄8年(1695年)3月23日、幕府は重益の家臣団統率がよろしくないとして改易に処し、重益は池田仲澄に身柄を預けられることになった。 |
本多重信 | 本多重方 |
嫡子のなかった兄の3代藩主・本多重益の養子となる。これには、暗愚な重益を隠居させ重信を擁立しようとした丸岡藩家臣・太田又八の策略があった。しかし、元禄2年(1689年)に重信は早世した。その後、分家の重修が養子となるが、家臣団は二つに分裂し、藩内抗争は激化していくこととなる。 | 慶長13年(1608年)、旗本・本多成重の4男として生まれる。慶長18年(1613年)父・成重が越前藩主松平忠直の付家老となる。元和9年(1623年)忠直が改易となり、成重は独立して丸岡藩主となる。忠直に代わって、越前藩主となった忠昌から、成重の子の出仕を望まれる。寛永元年(1624年)成重と共に江戸城に登城して将軍家光と大御所秀忠に拝謁し、越前藩に出仕する許しを賜る。重方は忠昌に仕え、後に3000石を知行し家老,高知席首座となる。高知席は家老を輩出する藩内最高の家格。延宝7年(1679年)隠居して浄入と名乗り、家督を嫡男・道重に譲る。元禄4年(1691年)死去。享年84。 |
本多道重 | 本多成広 |
寛永21年(1644年)福井藩家老・本多重方の子として越前に生まれる。寛文5年(1665年)藩主・松平光通に召し出され、家老として仕える。延宝4年(1676年)8月、藩主・松平綱昌の家督相続の御礼言上の際に、将軍徳川家綱に拝謁。延宝7年(1679年)父・重方の隠居により家督を相続。貞享3年(1686年)福井藩が所領を半知の25万石に削減されたことにより、道重の知行も1975石となる。元禄元年(1689年)孝顕寺において藩祖・松平秀康廟の造営を行う。元禄6年(1694年)家老を辞職。元禄8年(1695年)、本家の丸岡藩主・本多重益が改易となる。宝永4年(1707年)死去。享年64。家督は嫡男・成広が相続した。 | 宝永4年(1707年)、父・道重の死去により家督相続。宝永7年(1710年)城代となる。享保9年(1724年)に家老となり、19年にわたって藩政に携わり、藩主・吉邦,宗昌,宗矩に仕えた。寛保2年(1742年)職を辞し、同年8月3日死去。享年76。 |