水戸徳川家→越前松平家→明石松平家

MT51:結城秀康  徳川家康 ― 結城秀康 ― 松平直良 MT58:松平直良


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松平直良 松平直明

 慶長9年(1604年)11月24日、結城秀康の6男として、藩領内の永平寺町にあった、母親の実家である津田信益の屋敷にて生まれる。元和9年(1623年)、北庄藩主で長兄の松平忠直が強制隠居とされると、藩領の大部分は次兄の忠昌の相続とされ、残りは兄弟に分割されることになり、末弟の直良も寛永元年(1624年)に越前木本藩主となり2万5,000石を知行する。ただし、この段階では、本藩からの完全独立経営が行われていたとは言えない。寛永12年(1635年)に加増され、兄の直基が越前大野藩に転封した後の越前勝山藩主3万5,000石となる。
 正保元年(1644年)にさらに1万5,000石を加増されて5万石の上で、またしても兄の直基が出羽山形藩に転封した後の越前大野藩主となった。正保3年(1646年)12月、侍従・但馬守に叙任される。
 甥で福井本藩の藩主の松平光通の男子である松平直堅(権蔵)が延宝元年(1673年)6月20日に江戸の直良を頼って越前の国許を出奔、直良はこれを江戸藩邸に匿った。直堅の母親は片桐氏の出である。直良の母親の父であり、大野藩家老・津田家の祖である津田信益(織田信長の従甥)は片桐氏の片桐且元に仕えていたことがあり、その津田家との縁により権蔵の母はまず直良の母に仕え、また津田家の推薦もあって光通の側に仕えることとなった。この縁を頼ったものと思われる。
 のち直堅は延宝3年(1675年)5月21日に将軍・徳川家綱と謁見し、12月26日に従五位下・備中守に任じられ、賄料1万俵江戸定府の諸侯に列したが、ここにも直良の力添えがあったと推測される。
 延宝6年(1678年)6月26日に死去。享年75。後を3男の直明が継いだ。

 越前国大野藩2代藩主、播磨国明石藩初代藩主。直良系越前松平家2代。
 明暦2年(1656年)、越前大野藩初代藩主・松平直良の3男として江戸にて誕生。兄2人が直明の出生前に没していたため、末子ではあるが世継候補となった。万治元年(1658年)に領国の大野へ移り、同地で育つ。寛文7年(1667年)、江戸に赴き正式に直良の世子となり、初めて4代将軍・徳川家綱に御目見した。
 寛文9年(1669年)、従五位下若狭守を叙任する。寛文11年(1671年)、伊予国松山藩主・松平定頼の養女・仙姫を正室として迎えた。延宝3年(1675年)、従四位下に昇進する。延宝6年(1678年)、直良が没し大野藩を襲封する。天和2年(1682年)、1万石加増の6万石で明石に転封となる。元禄10年(1697年)、美作国津山藩主・森衆利が改易となったため、津山城受け取りに赴いた。
 元禄14年(1701年)、家督を長男・直常に譲って隠居した。翌元禄15年(1702年)、市正を称する。享保元年(1716年)、正室の仙姫が病没する。享保6年(1721年)、明石城二の丸にて病没した。享年66。
 『土芥寇讎記』によれば、以前は美女を多数集めて歌舞を好んでいたが、今は止めたとされている。また「主将の器に非ず」ともされている。長じてのち、浄土宗を信仰していたともされている。
 神戸市西区にある岩岡神社ではスサノオノミコトと共に松平直明を祭神としている。 

松平直常 松平直純

 直良系越前松平家3代。延宝7年(1679年)、越前国大野藩主・松平直明の長男として江戸にて誕生。天和元年(1681年)、松千代丸から処次郎と改名する。天和2年(1682年)、直明が明石藩へ転封となる。元禄3年(1690年)、元服して諱を直常と名乗り、5代将軍・徳川綱吉に御目見した。その後、直武と改名したが、再び直常に戻した。
 元禄6年(1693年)、従五位下・左兵衛佐を叙任する。元禄13年(1700年)、伊勢国桑名藩主・松平忠雅の姉・浅姫を正妻として迎えた。元禄14年(1701年)、直明の隠居に伴い家督を相続した。
 宝永元年(1704年)、和泉国岸和田藩主・岡部長泰,摂津国三田藩主・九鬼隆久と共に幕府より大和川改修工事を命ぜられる。宝永4年(1707年)、従四位下・左兵衛督に昇進する。正徳元年(1711年)には大和川改修工事に次いで朝鮮通信使接待役に任ぜられた。これら使役により、先代より窮していた藩の財政は一層困窮することとなった。享保17年(1732年)に享保の大飢饉が起こると、明石藩もイナゴの被害を受けた。享保18年(1733年)、侍従に任ぜられた。元文5年(1740年)、但馬守に改称する。
 寛保2年(1742年)、脳卒中となり右足が不自由になったため、翌寛保3年(1743年)に家督を長男・直純に譲って隠居した。延享元年(1744年)、明石城二の丸にて病没。享年66。

 直良系越前松平家4代。享保12年(1727年)、第2代藩主・松平直常の長男として明石城にて誕生。母は側室で松田友成の養女・幾代子。直常より處次郎の名を与えられる。元文2年(1737年)に元服し、直常より直純の諱を与えられる。この年、生母の幾代子が死去する。翌元文3年(1738年)、初めて8代将軍・徳川吉宗に御目見する。元文5年(1740年)、左兵衛を名乗る。従五位下を叙任し、左兵衛佐と改称する。
 寛保3年(1743年)、直常の隠居に伴い家督を相続する。藩財政窮乏のため半知借り上げ、上米を実施する。延享2年(1745年)、牧野貞通の娘・千姫と婚姻する。寛延元年(1748年)、朝鮮通信使が来日し、幕府より接待を命じられる。この年、千姫との間に長男・處次郎が誕生する。従四位下に昇進する。寛延3年(1750年)、財政窮乏対策として銀札を発行する。宝暦2年(1752年)、左兵衛督と改称する。宝暦12年(1762年)、再び朝鮮通信使の接待を行う。明和元年(1764年)3月20日(公式な没日は3月22日)に病没、享年38。長男の直泰が家督を継いだ。

 

松平直泰 松平斉宣

 直良系越前松平家5代。寛延元年(1748年)、第3代藩主・松平直純の長男として江戸藩邸にて誕生した。宝暦8年(1758年)に元服し、直純より直泰の諱を与えられる。宝暦12年(1762年)、初めて10代将軍・徳川家治に御目見する。元文13年(1763年)に従五位下を叙任し、内膳正と名乗る。
 明和元年(1764年)、直純が病没したため家督を継ぐ。明和2年(1765年)、内膳正より丹後守と改称する。明和7年(1770年)、二本松藩主・丹羽高庸の娘・勢姫(のち利恵姫と改称)と婚姻する。翌明和8年(1771年)、利恵姫が病没し、浅草の幡随院に葬る。安永2年(1773年)、従四位下に昇進、但馬守,左兵衛督と改称する。安永7年(1778年)、利恵姫の妹・喜姫を継室としたが、天明2年(1782年)には離婚している。天明4年(1784年)、家督を長男の直之に譲り隠居し、若狭守と称す。
 享和3年(1804年)、卒中のため明石城二の丸にて死去した。享年56。 

 直良系越前松平家9代。11代将軍・徳川家斉の26男として誕生。12代将軍・徳川家慶の異母弟。家斉の末息子であり、甥にあたる13代将軍・徳川家定よりも年下である。
 天保11年(1840年)、播磨明石藩主・松平斉韶の養嗣子となり家督を相続した。斉韶の嫡子である直憲(のち慶憲)を退けての強引な藩主就任であった。慶憲の生母・季遠姫はこれを嘆いて憤死したとも自殺したともいう。将軍の子が藩主になったことで、藩の石高は6万石から8万石に加増された。しかし、斉宣はさらに10万石への加増を老中らに求めたといわれ(御三家に挨拶に伺う際、10万石以下は表門から入れないとの理由で)、この要求によって8万石でありながら10万石格という複雑な事態が発生した。この10万石格という格式の維持と、将軍の子であるが故に莫大な支出を要し、明石藩の財政難にますます拍車がかかることとなった。
 天保15年(1844年)、病気で重篤になり、嗣子がなかったため先代斉韶の嫡子・直憲が世嗣に立てられた。享年20。

松平慶憲

 文政9年(1826年)、江戸藩邸にて嫡子として誕生する。文政10年(1827年)、父・斉韶は将軍・徳川家斉より自身の25男・周丸(のちの8代・斉宣)を養嗣子として強要され、翌文政11年(1828年)、周丸が明石藩の世嗣となる。天保9年(1838年)元服し、父・斉韶より直憲と名付けられる。
 弘化元年(1844年)4月、8代藩主・斉宣が病気重篤になり、急遽、世嗣となる。6月2日、斉宣死去。7月17日、家督を相続する。8月15日、将軍徳川家慶に初めて拝謁する。翌月、家慶の偏諱を賜り慶憲と改名。従四位下を叙任、兵部大輔を名乗る。弘化4年(1847年)、侍従を叙任。嘉永5年(1852年)奥平昌高の11女・鍼姫と婚姻する。
 嘉永6年(1853年)、外国船の来航が頻繁になったため、明石海岸に12箇所の砲台を築く。ペリーが浦賀に来航し、明石藩は品川警備を命じられる。翌安政元年(1854年)、明石藩は神奈川の警備を担当する。安政3年(1856年)に鍼姫と離婚する。この年、左近衛権少将に任官する。文久元年(1861年)、従四位上に昇進する。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に参陣する。左近衛権中将に任官する。翌慶応3年(1867年)長州征討より帰参。幕府より京都警備を命じられる。
 明治元年(1868年)、鳥羽伏見の戦いには幕府方として参陣したが遅参し、大坂城にあった将軍・徳川慶喜の救出ができず明石に引き返す。明石城に官軍の山陽鎮撫使が進軍したため、本家筋の旧福井藩主・松平慶永の取り成しで恭順の意を表し城を明け渡す。官軍に従軍し姫路まで進軍する。戊辰戦争に参戦し藩兵を越後方面へ派兵する。この年、藩校・敬義館が開かれる。
 明治2年(1869年)、隠居し家督を長男・直致に譲る。