徳川御三家(尾張徳川家)

TG01:徳川家康  松平親氏 ― 徳川家康 ― 徳川義直 TG11:徳川義直



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徳川義直 徳川光友

 はじめ義知・義利と名乗った後、元和7年(1621年)に義直に改名している。柳生利厳より剣術を学び、新陰流第四世を継承した。
 慶長5年(1600年)11月28日、徳川家康の9男として大坂で生まれる。母は志水宗清の娘・於亀(相応院)。童名は五郎太丸。
 慶長8年(1603年)1月28日、4歳のとき、甲斐国において25万石(24万石とも)を拝領する(甲府藩)。甲府城城代・平岩親吉は、このとき傅役を命じられた。五郎太丸自身は甲斐に入国せず、家康や生母・於亀とともに駿府城に居住した。親吉は、近臣の佐枝種長らを五郎太丸に近侍させている。実際の領国経営は、親吉と甲斐国奉行・大久保長安によって行われた。慶長9年(1604年)1月、正五位下に叙せられ、同11年(1606年)8月11日、7歳で元服し、従四位下右兵衛督に叙任され、徳川右兵衛督義利と称する。
 慶長12年(1607年)閏4月26日、兄・松平忠吉の遺領を継いで、甲斐国から尾張国清洲城47万2344石に転封する(清洲藩)。このとき、平岩親吉も尾張国犬山城城主12万3000石となり、後見役を続けることになった。
 慶長15年(1610年)2月、家康は、甲斐・信濃国および東海道の要として重要な名古屋に、天下普請として名古屋城を築き清洲から移した。義直自身は家康死後の元和2年(1616年)に尾張へ入国する。慶長16年(1611年)3月20日、参議、従三位・右近衛権中将を兼ねる。このとき、義直と改名した。慶長17年(1612年)、尾張国,美濃国のうち4郡を合わせて、48万1587石となる。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣し、天王寺付近に布陣した。
 元和元年(1615年)4月、浅野幸長の娘・春姫を正室に迎える。同年8月、家康が名古屋に滞在した際、信濃国,美濃国のうちで領地を与えられる。
 翌年の大坂夏の陣では後詰として布陣した(天王寺・岡山の戦い)。
 元和3年(1617年)7月19日、従三位・権中納言に叙任される。同月20日、権中納言を辞退。同5年(1619年)5月、尾張国,信濃国,美濃国,三河国,近江国,摂津国のうちで61万9500石となる。
 寛永元年(1624年)11月26日、将軍・家光の病状が重いと聞き(あるいは臨終の噂)、江戸に向かった。義直が小田原に着いた頃、家光の病が癒えたと聞き、そのまま江戸屋敷に入った。家光は酒井忠勝を派遣し、命令を待たずに勝手に東上したことについて譴責した。
 寛永3年(1626年)8月、従二位・権大納言となる。同年9月、後水尾天皇が二条城に行幸した際、家光とともに歌会に出て、一首を詠じた。同8年(1631年)7月、兄・秀忠が病を得たと聞き、尾張を出発し大磯まで至る。秀忠は書状を送り、義直を労りつつ、国に帰らせた。
 慶安3年(1650年)5月6日、江戸で死去。享年51。墓は応夢山定光寺(現・愛知県瀬戸市定光寺町)にある。
 長じてからは藩政を自ら行い、灌漑用水の整備,新田開発などを積極的に行って米の増産に努めた。そのほかにも検地による税制改革などで年貢収納を確立した。領内では儒教を奨励し、孔子堂の建立や城内の名古屋東照宮の建築を進めた。また、家康の形見分けで受け継いだ「駿河御譲本」に自身で収集した書誌を合わせ蓬左文庫を創設し、「決して門外不出にすべからず」と現在の図書館の走りとなる文庫とした。歴史書『類聚日本紀』も著している。武術も好み、柳生利厳から新陰流兵法の相伝を受けている。義直は朝宮御殿を拠点に、よく春日井原へ鷹狩りに行ったという。また、いつ襲われても対処できるようにするためか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差の位置を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足をばたばたと動かして寝ていたとも伝えられている。 

 初名は光義といい、こちらを名乗った期間の方が長い。
 寛永2年(1625年)7月29日、初代藩主・徳川義直の長男として名古屋にて生まれる。幼名は五郎八、五郎太。寛永10年(1633年)12月29日、第3代将軍・徳川家光から偏諱を与えられ、光義と名乗る。寛永11年(1634年)2月21日、徳川頼宣の世子・光貞と共に、将軍家光から鷹場を与えられた。寛永16年(1639年)9月21日、将軍・家光の長女・千代姫と結婚。
 慶安3年(1650年)、義直の死去により家督を継ぎ、翌年に父の菩提寺として建中寺を建立する。承応3年(1654年)、宮宿に西浜御殿を建造し、また寛文元年(1661年)には母の菩提寺として大森寺を建立した。
 寛文12年(1672年)に諱を光友と改めた。寺社奉行制度や評定所を設置し、官制の整備を図った。また、防火制度や軍備増強,林業制度の確立も行うなど、藩政の基礎を固めた。天和元年(1681年)、次男の松平義行に、さらに天和3年(1683年)、3男の松平義昌にそれぞれ新知が認められ、尾張徳川家の連枝を整備した。貞享2年(1685年)の熱田神社の造営を行う。そのほか藩邸が焼けてその修理費にと、支出が相次いで財政難に陥った。
 元禄6年(1693年)4月25日、家督を嫡子の綱義(綱誠)に譲り、大曽根別邸を建造し隠居所とした。元禄12年(1699年)、綱誠に先立たれた。元禄13年(1700年)10月16日、死去。享年76。
 武芸や茶道・唐楽・書など諸芸に優れ、剣術は柳生厳包(柳生連也斎)より学び、新陰流第6世を継承した。また、書では後西院・近衛信尋と共に三筆と称せられることがある。
 藩主となった当初はキリスト教信仰に対して寛容であったとされるが、濃尾崩れの一件により幕府から目付を派遣され、弾圧を強化した。寛文4年(1665年)にはキリシタン200余名が処刑され埋められた千本松原の刑場を別の場所に移し、跡地に清涼庵(のちの栄国寺)を建立して刑死した者たちの菩提を弔わせた。

徳川絲子 徳川綱誠

 1626年(寛永3年)、名古屋城で誕生した。幼名はお鶴、ついでお京。不幸にも足がやや不自由であったが、母に似て美しく、和歌・管弦をよくし、書画にも巧みで、父・義直から溺愛された。ために他国に嫁ぐことが極端にためらわれ、いたずらに婚期を逸していた。
 1649年(慶安2年)12月11日、八条宮智仁親王の3男・幸丸と婚約する。翌3年(1650年)に父・義直が没するが、その遺志により、1651年(慶安4年)、幸丸を名古屋に迎え、無事婚姻が成った。京姫は相次いで5人の女子を産んだ。長女・新姫は甥・徳川綱誠の正室となった。次女以下4人は、皆兄の徳川光友の養女となり、大名家に嫁いだ。
 幸丸は結婚前に元服して忠幸を名乗っていたが、1663年(寛文3年)、清華に列し1000石を支給され、広幡忠幸となった。この時以降、忠幸は京に在って来宅しなかった。忠幸は京に愛人がおり、庶子をもうけたが、尾張家には報告しなかった。忠幸の死後にこれを知った光友は怒って、広幡家と義絶した。
 忠幸が1669年(寛文9年)に没すると落飾し、普峯院と号した。1674年(延宝2年)、死去。享年49。墓所は愛知県名古屋市の政秀寺。 

 慶安5年(1652年)8月2日、2代藩主・徳川光義(のち光友)の次男として市ヶ谷邸で誕生した。母は徳川家光の長女・霊仙院(千代姫)。幼名は五郎太。
 明暦3年(1657年)4月、元服し、従四位下右兵衛督に叙任された。叔父の4代将軍・徳川家綱と父・光義より1字ずつ授かり綱義に改名する。義の文字は、源氏の祖八幡太郎源義家にちなむ名であり、尾張徳川家御連枝の四谷松平家(高須藩),大久保松平家(梁川藩)の通名でもある。5代将軍に綱吉が就任したことにより、同音を避けるために綱誠に改名する。
 寛文3年(1663年)12月、従三位中将に叙任。寛文7年(1667年)9月、新君と結婚。元禄4年(1691年)3月、参議となる。元禄6年(1693年)4月、父・光友の跡を継いで、同年、権中納言となる。
 綱誠の治世は父の陰に隠れ、あまり目立たない。幼少より血統の良さと英明の評判が高く、文教に力を注いだのが知られる。藩領の地誌である『尾張風土記』の編纂を元禄8年(1698年)に命じたが、綱誠の病没により未完成のまま草稿が残り、後の宝暦2年(1752年)に完成する『張州府誌』の母体となった。
 元禄12年6月5日(1699年7月1日)、江戸市ヶ谷邸で死去した。享年48。草苺を食し食あたりしたのが死因と言われている。綱誠は生前より大食漢・食道楽として知られていた。
 尾張国建中寺に葬られ、誠公と諡された。

徳川吉通 徳川継友

 元禄12年(1699年)、父の綱誠が48歳で急死したため、その跡を継いで11歳で藩主となった。若年のため、叔父の松平義行が藩政を補佐した。
 武術,儒学,神道を修め、尾張柳生9世を継承した。木曾林政の改革に挑むなど、名君の評価が高かった。一方で、『鸚鵡籠中記』などには大酒・大食など暗君ぶりも伝えられている。
 正徳3年(1713年)7月26日、死去。享年25(満23歳)。 

 第3代藩主・綱誠の11男。元服の後、兄である第4代藩主・吉通の偏諱を賜って通幸、次いで通顕と改め、さらに将軍・徳川家継の偏諱を賜り継友と改める。
 正徳3年(1713年)、兄・吉通,甥・五郎太の相次ぐ急死により6代藩主となる。長い間「お控え」として、結婚もできず捨扶持を与えられた生活から一躍浮上した嬉しさからか、五郎太が没した翌日に側近や家臣を招いて壮大な酒宴を開き、これはさすがに不謹慎であると老臣・竹腰氏から諌められた。
 7代将軍・家継死後の将軍候補になることが、御三家筆頭という位置から当然視されていた。しかし、紀州徳川家の吉宗が将軍となった。
 幼少より金銭を蓄積することに熱心、「性質短慮でケチ」と領民の評判は今ひとつで、将軍位継承争いに敗れた後は、尾張大納言と尾張大根をかけて「切干大根」というあだ名があった(ただし、継友は大納言に任ぜられていない)。
 一方、綱誠の頃より、将軍・綱吉の「御成費用」などで逼迫してきた藩財政の建て直しを図り、役職を整理したり、一族への給与の削減などをして、享保13年(1729年)には金13,372両余,米27,815石余の黒字を残した。緊縮財政下にもかかわらず、名古屋の発展も著しく、江戸の豪商・三井家,越後屋が再びの出店をし、城下町人口も7万人を超えるに至った。これらが次代宗春の飛躍にもつながったのである。
享保15年(1731年)に後継者がいないまま死去した。享年39。弟の宗春が養子となって跡を継いだ。

徳川宗春 松平友著

 元禄9年10月26日(1696年11月20日)、尾張藩第3代藩主・徳川綱誠の19男として名古屋城で生まれる。母は側室の梅津(宣揚院)。
 宝永5年(1708年)、兄で第4代藩主の徳川吉通より偏諱を受け通春と名乗る。正徳3年(1713年)江戸へ移り元服を行い、第7代将軍・徳川家継に拝謁して譜代衆となる。享保14年(1729年)、第8代将軍紀州徳川家の徳川吉宗から梁川藩3万石を与えられる。享保15年(1730年)、兄の継友が死去したため梁川の領地を返上し、尾張徳川家を相続する。翌享保16年(1731年)に名古屋城へ入るとともに宗春と改名。名古屋入府の際の宗春一行は華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と金糸で飾られた虎の陣羽織姿であった。
 宗春は藩主に就任すると、自身の著書『温知政要』を藩士に配布。その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」、「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げ、名古屋城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど開放政策を採る。これらの政策には、徳川御三家筆頭でありながら兄・継友が将軍位を紀州家の吉宗に奪われたことや、質素倹約を基本方針とする吉宗の享保の改革による緊縮政策が経済の停滞を生んでいたことへの反発があると言われている。なお、吉宗の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。この結果、倹約令で停滞していた名古屋の街は活気を取り戻し、宗春の治世の間、尾張藩ではひとりの処刑者も出さないという当時としては斬新な政策も打ち出している。
 宗春の生活ぶりは国元はもとより江戸においても変わらず、享保17年(1732年)、参勤交代で江戸へ下った際に吉宗から使者を介して詰問されている。これに対し宗春も一応上意として受けるも、ただお上は倹約の根本をご存じないので、お分かりにならないのだろうと一歩も引かず反論した。
 しかし、浪費によって経済の活性化を図るものの、尾張藩士民は緩み財政も赤字に転じた。将軍家との対立に竹腰正武ら国元の藩重臣らは不安を募らせ、宗春失脚を画策する。宗春が参勤で江戸に滞在中の元文3年6月9日(1738年7月25日)謀反を起こし実権を奪う。また宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。元文4年1月12日(1739年2月19日)、宗春は吉宗からの隠居謹慎を広島藩主・浅野吉長らにより伝えられ、名古屋城三の丸に幽閉される。父母の墓参りも含め外出は一切許されなかったが、蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(猪飼氏)と、おはる(鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。
 美濃国高須藩主の松平義淳(のちの徳川宗勝)が後継となったが、宗春の養子ではなく、尾張藩は幕府が召し上げたうえで改めて宗勝に下した。
 明和元年10月8日(1764年11月1日)死去。享年69(満67歳没)。宗春の死によって徳川綱誠以来の男系の血筋は断絶した。宗春の処分は死後も続き、墓石に金網が掛けられた。没後75年の天保10年(1839年)に第11代将軍・徳川家斉の子・徳川斉荘が第12代尾張藩主に就任する際に、名誉回復により従二位権大納言を贈られ、歴代藩主に列せられる。また金網も撤去された。
 死後遺体は建中寺に埋葬された。土葬だったため明治期の発掘調査ではミイラ化した状態で見つかり、経帷子や守り刀の木刀も残っていた。昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で、焼夷弾の直撃を受け墓石の一部が損傷した。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い市内の墓が千種区の平和公園に移転、宗春の墓も移されるとともに遺骸は火葬された。なお、副葬品などは建中寺に収められている。

 初名は友親。元禄6年(1693年)、五千石を賜り、翌元禄7年(1694年)にはさらに一万石を与えられる。
 正徳元年(1711年)、兄の義行,義昌に続き、分家として独立し、川田久保松平家を興した。なお、川田久保というのは友著が川田窪に屋敷を構えたことに由来する。
 後を子の松平友淳が継いだ。のちに友淳は高須松平家を継ぎ、義淳と名乗り、さらに後には本家を継いで徳川宗勝と名乗った。そのため川田久保松平家は僅か2代で絶えることとなった。