徳川御三家(尾張徳川家)

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徳川宗勝 徳川宗睦

 尾張藩支流川田久保家初代・松平友著(尾張藩主・徳川光友の11男)の長男。官位は従三位,権中納言,右近衛権中将,右兵衛督,但馬守,左近衛少将。
 幼少時は祖母の縁者・鈴木重兵衛のもとで養育された。その後も低身分の役人の下で幼年期や青年期を過ごしたため、宗勝はこの経験から立派な人物になっていたらしい。友相,友淳と名を改め、享保17年(1732年)、尾張藩の支藩・高須藩の松平義孝の養嗣子(この時期は松平義淳と名乗る)となってその後を継いだ。元文4年(1739年)正月13日、尾張藩主であった宗春が将軍・徳川吉宗によって強制的に隠居させられると、その後を継いで藩主となった。なお、高須藩主の家督は3男の松平義敏が継いだ。
 この頃、宗春の放漫財政によって尾張藩の財政窮乏化は深刻化していた。このため藩主となった宗勝は、藩財政再建を主とした藩政改革を試みる。もともと幼少時から苦労を知っていることもあって自ら倹約を率先して行い、領民を苦しめないために増税を行なわないという、いわゆる緊縮財政政策を採用したのだが、これが大成功して藩財政は再建されることとなった。ただしこれには、先代・宗春の頃に築かれていた基盤があってこそという意見もある。
 ともあれ宗勝が名君であったのは明らかで、布施蟹養斎を登用して藩校・明倫堂の前身となる学問所を創設、さらに様々な文化的書物の編纂の他、刑法の整備なども行っている。刑法の整備においては寛容な一面がある一方、盗賊取締りのために死刑制度を復活させるなど厳しい一面もあった。
 宝暦11年(1761年)6月22日、57歳で死去し、跡を次男の徳川宗睦が継いだ。先代藩主の宗春に比べ影は薄いが、彼も名君の一人である。また、15男11女という子宝に恵まれた人物でもあった。

 幼名は熊五郎。宝暦11年(1761年)、父の死去により跡を継ぐ。父同様に才能に優れ、山村良由や樋口好古らを登用して藩政改革に乗り出した。その結果に行われた新田開発や殖産興業政策、治水工事(熱田での開墾)の多くで成功を収めている。また、問題化していた役人の不正を防止するため、代官制度の整備も行った。農村の支配強化も行い、徴税の確実性を務めている。さらに父の時代に少々厳しくなりすぎていた刑法を改め、寛容なものにしている。藩士に対しても相続制度を確実なものとした。文化的にも父の代に基礎が築かれていた藩校・明倫堂(現・明和高等学校)を創設して藩の教育普及に努めた。
 ところが、このような改革を行い過ぎた結果、宗睦の晩年には財政赤字が見え始める。これを解決するために藩札を発行したが、これがかえって物価騰貴など経済の大混乱を助長してしまった。
 寛政11年(1799年)12月20日、67歳で死去。法号は天祥院。
 宗睦の実子としては、好君との間に儲けた長男・治休,次男・治興などがいたがいずれも早世、さらに支藩の美濃高須藩から養嗣子に迎えた治行も早世していたため、一橋家から斉朝を養嗣子として迎え、跡を継がせた。このため、徳川義直以来の血筋は断絶した。
 宗睦は尾張藩の「中興の祖」と言われている。確かに藩政においては前半と中盤では大いに成功を収め、藩政を発展、安定化に導いた。しかし晩年の財政政策の失敗は、その後の尾張藩における財政破綻の一因を成したのであった。

徳川斉朝 徳川斉温

 徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男。寛政10年(1797年)4月13日、徳川宗睦の養子となる。寛政12年(1799年)、養父・宗睦の死去により家督を相続した。なお、徳川宗睦の死去により、尾張徳川家の徳川義直以来の血統が断絶した。幼少の藩主・斉朝に代わり、藩政は成瀬正典を中心に動かされた。ただし、斉朝の成人後も成瀬は実権を握り続けた。また、成瀬は紀州や水戸の付家老とも連携してその地位拡大に邁進する。
 斉朝は官位昇進などにおいては、将軍の縁者ということもあって異例の速さで遂げている。斉朝自身は宗睦のように有能ではなかったが、藩校・明倫堂の学制改革や倹約に努めて、藩財政の再建を目指している。しかし、これらはあまり効果が無かった。文政10年(1827年)8月15日、家督を徳川斉温(家斉の19男)に譲って隠居した。以後、名古屋で23年間にわたる隠居生活を送った。
 次代の斉温が一度も尾張入りしなかったため、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったという。ただし、天保10年(1839年)、養子・斉温の没後、徳川斉荘(家斉の11男)を新藩主に迎えるにあたって、幕府は成瀬正住らとの交渉で事を運び、隠居の斉朝にはまったく相談はなかった。
 嘉永3年(1850年)2月、化膿性炎症を原因として病に倒れ、同年3月晦日に死去した。享年58。墓所は名古屋市東区筒井の建中寺。

 11代将軍・徳川家斉の19男。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定,14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。母は側室・お瑠璃の方。正室は田安斉匡の娘・愛姫(俊恭院)、継室は近衛基前の養女(鷹司政煕の娘)・福君(琮樹院)。幼名は直七郎。
 文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、養父・斉朝の隠居により、家督を相続した。
 尾張藩の財政の建て直しなどに尽力したといわれるが、実際には無類のハト好きで、江戸藩邸に大量のハトを飼育し、藩費を浪費した。また、病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後死去までの12年間、尾張藩領内に一度も入ったことがなかった。死去に際して実子がなく、異母兄の徳川斉荘が養子となって家督を相続した。

徳川斉荘 徳川慶勝

 文化7年(1810年)6月13日、徳川家斉の12男として生まれる。幼名は要之丞。12代将軍・徳川家慶は兄である。
 文化10年(1813年)12月25日、徳川斉匡の養子となる。天保7年(1836年)8月、養父・斉匡の隠居により、田安徳川家の家督を相続する。天保10年(1839年)3月26日、徳川斉温の死去により、末期養子として尾張徳川家の家督を相続した。
 斉荘の養子入りは幕府の一方的な命令によるものであり、藩内に大きな反発を生んだ。とくに先代・斉温の遺言でもなく、隠居していた先々代斉朝(斉荘の従兄にあたる)にも全く相談もないことに不満は高まった。藩内では支藩である高須藩主松平義建の次男・秀之助(のちの徳川慶勝)を望む者が多かった。このとき、御附家老の一人である竹腰正富が藩内の説得役となったが、反発した藩士が「金鉄組」を結成した。これが幕末に至り、反幕・尊皇攘夷派への流れとなって、竹腰家を中心とした佐幕派との対立へとつながることとなる。
 斉荘自身は苦労知らずの遊興好きで、苦しい藩財政を省みなかったといわれる。子女は6人。次男で斉荘死後に出生した昌丸は、一橋家を相続して間もなく夭折したが、女子の2人は成人して大名家に嫁いだ。

 兄弟に15代藩主・徳川茂徳,会津藩主・松平容保,桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。維新後、茂徳とともに朝敵となった容保,定敬の助命に奔走した。明治11年(1878年)、この四兄弟は再会している。
 江戸四谷藩邸に生まれる。幼名は秀之助、元服後は松平義恕。相続当初は徳川慶恕。尾張藩では10代藩主・斉朝から13代藩主・慶臧まで4代、将軍家周辺からの養子が続いた。また11代藩主・斉温がその在世中一度も尾張に入国せずに江戸暮らしをするなど、尾張藩士の士気を地に落とすような出来事が続き、下級藩士を母体とする金鉄党などの養子反対派が支藩の高須藩出身である慶勝の藩主就任を渇望していた。嘉永2年(1849年)に慶臧が死去すると、慶勝の14代藩主就任が実現する。
 慶勝は藩祖・徳川義直の遺命である「王命によって催さるる事」を奉じて尊皇攘夷を主張し、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行う。幕閣において老中・阿部正弘の死後に大老となり幕政を指揮していた井伊直弼が安政5年(1858年)にアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は水戸徳川家の徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議した。これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳が15代藩主となる。
 この頃から、欧米より伝来した写真機に興味を持ち、自らの手で薬品の調合をし、写真を撮影している。撮影した写真の中には明治3年(1870年)に取り壊された名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、藩江戸下屋敷などの写真が1000点近く残されており、歴史的史料価値に値する写真も数多い。
 万延元年(1860年)、直弼が桜田門外の変で暗殺されると、文久2年(1862年)に「悉皆御宥許」の身となった。その年に上洛し、将軍・家茂の補佐を命じられる。文久3年(1863年)、茂徳が隠居し、実子の元千代(義宜)が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握る。
 その後、慶勝はたびたび上洛するが、その京都では文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変が起こり、長州藩が京を追放された。翌元治元年(1864年)に慶勝は、雄藩の藩主経験者からなる参預会議への参加を命じられる(実際には辞退)。
 その年、池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため、禁門の変(蛤御門の変)を引き起こす。しかし、これに失敗して長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次幕長戦争)を行うこととなる。長州征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した。しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征伐が決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。征伐を受けそうになった長州藩は密かに薩摩藩と秘密同盟を結び(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。
 慶応3年10月14日(1867年11月9日)には土佐藩の勧めで15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、徳川幕府が消滅した。慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、12月9日(1868年1月3日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。翌慶応4年1月3日(1月27日)に京都で旧幕府軍と薩摩藩,長州藩の兵が衝突して鳥羽伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する。慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取る。そのうち尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、1月20日(2月13日)に尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(青松葉事件)。閏4月21日(6月11日)に議定を免ぜられ、その後、政界に立つことはなくなった。
 明治8年(1875年)、義宜の病死を受けて当主を再承した。明治11年(1878年)から始まった旧尾張藩士による北海道八雲町の開拓も指導した。明治13年(1880年)家督を養子・義礼に譲り隠居した。明治16年(1883年)に死去、享年60。墓所は東京都新宿区の西光庵。 

徳川義宜 徳川義禮

 尾張国尾張藩の第16代藩主(最後の藩主)。第14代藩主・徳川慶勝の3男。幼名は元千代。名は義宣、徳成とも呼ばれる。
 第15代藩主・徳川茂徳が実子が居なかったために幕命により伯父の養子となる(のちに養親子関係は解消)のち茂徳が隠居したため(のち一橋家を継いで一橋茂栄となる)、元治元年(1864年)にわずか6歳で家督を継承し、第16代藩主に就任することとなった。官位は従三位。左近衛権中将。
 しかし幼少のため、執政は父・慶勝によってほとんど成されたという。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると父と共に新政府軍に帰属し、新政府軍が東海道を江戸に向けて出征を開始すると、その先鋒を務めた。徳川慶喜隠居後の徳川宗家次期当主候補に擬せられたこともある。しかしもともと病弱だったため、父・慶勝の影に隠れ、主体性の薄い人物であった。そして明治8年(1875年)、18歳で若死にした。義宜の死後、父・慶勝が尾張徳川家当主として復帰している。

 尾張徳川家第18代当主。讃岐高松藩主・松平頼聰の次男。幼名は晨若。1876年5月9日、尾張徳川家14代および第17代当主・徳川慶勝の養子となる。1880年9月27日、家督を相続する。1884年7月、華族令制定にともない侯爵となる。同年9月からイギリスに留学。1887年10月、帰国する。留学によりキリスト教に惹かれるようになったようである。
 1890年10月、貴族院議員となる。1891年、芸妓に入れ込むようになったとされる義礼の不品行をめぐり、旧尾張藩士らが養子縁組解消を要求し、大きな騒動となったが、徳川家達ら徳川一門の仲裁によって取り静められる。神奈川県中郡大磯町の別荘跡地は、現在、大磯町立大磯中学校となっている。
 正妻は慶勝の4女・登代姫(離婚)。後妻は慶勝の7女・良子。

徳川義親 徳川義知

 尾張徳川家第19代当主。生物学者としては、昭和天皇の兄弟弟子にあたる。近代の尾張徳川家当主として、徳川家の歴史的遺産の保存や社会文化活動に力を注ぎ、植物学者としても林政学の分野で先駆的業績を残した。一方で、本人の意図しない原因で「虎狩りの殿様」の通称が喧伝され、イデオロギーとは無関係に保守・革新の両勢力と奇妙な関わりを持つなど、ユニークな逸話を多く残したことでも知られる。
 1886年10月5日、元越前藩主である松平春嶽の5男として生まれる。上田藩松平の祐筆・宇川家で藩主松平の若君と宇川家の8人の子供達と幼少時から中学に入るまで育てられた。学習院初等科時代は臆病柔弱で成績劣等ゆえに1年から2年に進級できなかった。このため学習院の教師の家に預けられ、周囲の庶民と交わるうちに逞しさを身につけた。『十五少年漂流記』を読んだのをきっかけに、スタンリーやアムンゼンなどの探検家に憧れるようになり、諸種の探検記を読み漁る。成績は相変わらず最劣等だった。
 1908年4月、尾張徳川家当主徳川義禮の養子となって「義親」と改名。同年5月、養父の後を受けて同家19代となり侯爵を襲爵。1909年、義禮長女の米子と結婚。同年、学習院を卒業して東京帝国大学文科大学史学科に入学。歴史に興味はなく、単に無試験だったのでこの学科を選んだに過ぎないという。義親は尾張徳川家の領地であった木曽山林を対象に林政史を研究したが、政治史中心の国史論壇にあって酷評を受けた。
 最劣等の成績で卒業後、1911年、同大学理科大学生物学科に学士入学。今度は入学試験を受けたが、尾張藩出身の服部広太郎の口利きで難なく入学を許された。専攻は植物学だった。イチョウを研究し、卒論「花粉の生理学」をドイツ語で提出し卒業。今度は最優等の成績だった。
 卒業すると自邸内に研究室を設け、研究を続行。この研究室を発展させる形で、1918年、東京府荏原郡平塚村小山に「徳川生物学研究所」を設立。この研究所では、桑田義備,服部広太郎,石川千代松,三好学,藤井健次郎,柴田桂太,谷津直秀,鏑木外岐雄,江本義教,清棲幸保,篠遠喜人,岸谷貞治郎,稲荷山資生,湯浅明,奥貫一男など多くの生物学者が活躍した。
 このころ、北海道八雲町にある徳川農場(徳川慶勝が1878年に旧尾張藩士を移住させたのが起源)の経営に尽力し、ヒグマの害を減らす目的で熊狩りを毎年おこなう。北海道の土産物として有名な木彫りの熊は、伝統工芸品ではなく、この時期に義親が冬季の現金収入確保のためスイスから導入したものである。
 1919年、千島の生物の採取を第一の目的に、研究所所員を中心に構成された一行が、北千島,占守島へ、約1ヶ月の探検旅行を行う。
 1921年、蕁麻疹治療のためマレー・ジャワで転地療養した際、ジョホールのスルタンの招きでマレー半島に赴き、虎狩りや象狩りを行う。義親本人はあくまでスルタンの饗応に応じて狩猟に興じただけで、虎狩りを行ったのもこの時のみであったが、これが日本に大袈裟に報じられ、世間から加藤清正さながらに「虎狩りの殿様」の通称を奉られた。この時、加茂丸の船上でフランス留学に向かう画家・長谷川路可と知り合い、帰国後から終生路可を支援する。
 のち、理髪師の全国団体から乞われて団体の名誉職に就いている。「トラ刈りの殿様」だから、という冗談のような理由であるが、引き受けた義親の鷹揚さを偲ばせる逸話である。これに限らず、名家の当主という立場から多数の公的・私的団体の代表職・名誉職に就任している。
 1925年に成立した治安維持法の採決では貴族院議員で唯一の反対票を投じた。
 1931年、尾張徳川家の古文書や家宝を管理する目的で、財団法人徳川黎明会を組織し、のちに徳川美術館を開設。同年、陸軍と右翼のクーデター未遂事件、三月事件に資金面で関与する。
 1942年、軍政顧問としてシンガポールに赴任。イギリスから接収した植物園や博物館や図書館を、田中館秀三,郡場寛,羽根田弥太たちと協力して戦火や略奪から守り抜き、敗戦後はほぼ無傷で返還した。
 戦後、日本社会党結成にあたり資金を援助した。また名古屋市長選挙にも自民党から推薦を受け出馬したが落選した。
 1976年9月、脳内出血で逝去。享年89。
 義親は聴覚障害児の教育(ろう教育)にも関心を寄せており、口話法の普及に大きな影響力を持った。しかし、後に手話法の必要性を説く高橋潔の自宅を訪問して徹底的に討論した際、高橋に決定的に論破されて自説を捨て、手話法を擁護する立場に転向した。この時、高橋は激昂し「失礼ながら、あなたは馬鹿殿さまです」と言い放れたと、後に義親は回想している。 

 徳川義親の長男として東京に生まれる。母・米子は尾張徳川家第18代当主・徳川義禮の長女。幼名は五郎太。暁星中学校に学ぶ。
 1931年6月、華族の長男の慣わしに従って成人時に従五位となる。このとき義知と改名する。以後、2年以上にわたってイギリスに留学する。この間、1931年12月、義親が財団法人徳川黎明会を設立したことに伴って同会の副会長に就任する。
 1934年11月に帰国、1935年8月から東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)に研究員として勤務する。同年10月、松平恆雄の次女・正子と結婚する。啓明寮の寮長に就任する。
 1942年3月、父・義親と共にマレーに渡り、ジョホール州の施政に尽力する。帰国後、1943年12月からは東京市大森区の東京俘虜収容所に勤務する。ここでは英米人たちの世話役として俘虜たちに寛容さを示し、戦後に感謝状を受けた。
 1945年9月、日本赤十字社に入社、社会福祉事業に力を注ぐ。1946年1月、義親の公職追放を受けて財団法人徳川黎明会の会長に就任、財団および徳川美術館の復興に貢献する。
 1951年から日英協会理事。1967年、日英親善の功績が認められ、女王エリザベス2世から名誉大英勲章(Honorary Commander of the Most Excellent Order of the British Empire)を受ける。1965年から死去するまで日英協会協会副会長。1977年、日本とマレーシアの友好親善に尽くした功績が認められ、マレーシア連邦ジョホール王国のスルタンから最高勲章(Darjah Kerabat Johor Yang Amat Dihormati)を受ける。 

徳川義宣 徳川義恕

 旧下総佐倉藩主家当主・堀田正恒伯爵の6男として東京市渋谷区に生まれた。生まれた時の姓名は堀田正祥。学習院幼稚園から学習院大学まで明仁親王の同級生であった(誕生日もわずか1日違い)。1955年11月、学習院大学政経学部経済学科在学中に尾張徳川家第20代当主・徳川義知の婿養子となり、徳川義宣と改名する。
 1956年3月、学習院大学政経学部経済学科卒業。同年4月、東京銀行入行。1957年11月、財団法人徳川黎明会評議員に就任。1960年5月に徳川黎明会理事となった。1961年7月、東京銀行を退職。同年9月より東京大学農学部林学科の研究生となる。1964年9月に東京大学を修了し、東京国立博物館の研究生となる。1965年3月に東京国立博物館研究生を修了し、学芸員の資格を取得。この間の1965年1月に八雲産業株式会社社長となった。
 1967年3月、財団法人徳川黎明会専務理事に就任する。1972年10月、有限会社徳川農場を設立し社長に就任した。1976年4月、財団法人徳川黎明会および徳川美術館の館長に就任。旧大名家の家宝を収集する。特に尾張家旧蔵であった大名物《金花》の茶壺を再発見し、同家に買い戻したことは良く知られている。博物館での活動に加えて多くの大学でも教鞭をとり、1977年4月には愛知学院大学文学部講師となり、1984年3月まで務めた。1981年4月、青山学院女子短期大学国文科講師となり、2002年3月まで務めた。また、1983年4月からは上智大学美術史講師となり、1991年3月まで務めた。1991年4月、学習院大学日本社会史講師。同年12月、日本博物館協会から博物館法制定40周年を記念して文部大臣より表彰される。
 1990年4月、社団法人国際日本語普及協会評議員となる。1993年5月、財団法人徳川黎明会会長に就任した。2002年11月、文化庁長官より表彰。
 2005年11月23日、肺炎のため順天堂大学医学部附属順天堂医院で71歳で死去した。長男である徳川義崇が尾張徳川家第22代当主を継承。

 旧尾張藩主徳川慶勝の11男。慶勝は1875年に尾張徳川家を再継承したものの、嗣子がなかったために義礼を養子に迎えた。しかしその後に義恕が生まれたため、義恕は1888年6月に分家して一家を建て、慶勝の功績で男爵となった。ちなみに義恕は慶勝の正室・隼子(矩姫)に実子同様に育てられ、成人するまで自分が家を継ぐものと思い込んでいたという。
 学習院卒業後、陸軍歩兵少尉に任じて日露戦争に出征。1912年、侍従に転じる。 

徳川義寛

 1906年(明治39年)、尾張徳川家分家である徳川義恕の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和2年)、学習院高等科を卒業し、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。1936年(昭和11年)、侍従となる。
 終戦前夜、降伏を阻止しようとする陸軍幹部らの反乱(宮城事件)に遭い、脅されながらも昭和天皇の玉音放送の録音盤を守った。
 戦後も昭和天皇の側近を務め、宇佐美毅宮内庁長官や入江相政侍従長らとともに、1971年(昭和46年)のヨーロッパ各国歴訪、1975年(昭和50年)のアメリカ合衆国ご外遊にも随行した。
 1985年(昭和60年)に入江侍従長の逝去を受けて侍従長に就任した。1988年(昭和63年)まで昭和天皇に仕えた。
 1964年(昭和39年)には姪の華子が義宮正仁親王と結婚して常陸宮家が興り、常陸宮妃となる。1969年(昭和44年)からは、実妹・北白川祥子が女官長に就任し、兄妹で天皇・皇后に長く仕えた。 侍従長退任後は、公益法人日本博物館協会会長を務めた。没後の1999年(平成11年)に、終戦時の詳細な日記『徳川義寛終戦日記』が刊行され、話題となった。