F916:内藤忠郷 | 藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤重清 ― 内藤忠郷 ― 内藤清成 | F917:内藤清成 | ● |
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内藤清成 | 内藤清次 |
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弘治元年(1555年)、三河国岡崎にて竹田宗仲の子として生まれる。内藤忠政の養子となり、19歳で家督を継いだ。浜松にて徳川家康に召し出され、小姓を務めて信任を得る。天正8年(1580年)、徳川秀忠(当時2歳)の傅役を任された。天正18年(1590年)正月には、秀忠の供をして上洛した。 |
天正5年(1577年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の長男として誕生する。慶長9年(1604年)の徳川家光の山王神社初詣をはじめ、翌年の秀忠上洛に同行するなど、清成在世中から信任を受ける。慶長12年(1607年)には家光の傅役を命じられた。大坂夏の陣では書院番頭を務め、のちに奏者番、元和2年(1616年)には老職(後の老中に相当)に就任する。父の清成同様、政治面で重用され、草創期の幕府を支えた。 |
内藤清政 | 内藤正勝 |
慶長8年(1603年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の次男として誕生する。元和3年(1617年)、老中であった兄の清次が死去したため、その跡を継ぎ相模国,常陸国,上総国,下総国内で2万6,000石を領した。この時、従五位下修理亮に叙任した。元和8年(1622年)、安房国平・長狭両郡に領地を移され、4,000石の加増を受けて3万石となる(安房勝山藩)。 |
慶長13年(1608年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の3男として誕生する。清成の死去と同年の生まれであった。清成の死後、内藤家の家督は長男・清次が、清次の死後は次男・清政が継ぐ。清政の代に安房国勝山に移封され、3万石の大名となっていた。 |
内藤重頼 | 内藤清枚 |
寛永5年(1628年)、安房勝山藩第2代藩主・内藤正勝の長男として誕生する。寛永6年(1629年)に正勝が死去すると、重頼は幼少のため、遺領2万石のうち5000石のみを相続した。減封にともない内藤家は大名から旗本となり、安房勝山藩は廃藩となった。 |
正保2年(1645年)8月6日、旗本・水野守政の次男として生まれる。元服して水野守興と名乗り、旗本として寛文12年(1672年)5月26日、書院番に列し幕臣として仕えていた。母が富田林藩主・内藤重頼の妹だったため、天和元年(1681年)4月6日に重頼の養子となり、内藤清長と改名する。元禄3年(1690年)、重頼の死去により遺領3万3000石を継いだ。元禄4年(1691年)2月9日、信濃国伊那郡・筑摩郡に移封され、高遠藩内藤家の初代藩主となる。藩庁は高遠城に置いた。 |
内藤頼寧 | 内藤頼直 |
兄・頼容が廃嫡されたため嫡子となり、文政3年(1820年)に父の隠居により家督を相続した。文政9年6月17日、奏者番に就任する。天保11年(1840年)3月24日、若年寄に就任する。博学多彩で、書画や謡曲・能楽・茶道に通じていた。 |
天保11年(1840年)、第7代藩主・内藤頼寧の7男として生まれる。兄・頼愛が早世したため世子となり、安政6年(1859年)に父の隠居により家督を相続すると、翌万延元年(1860年)、藩校進徳館を開闢した。
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