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内藤忠興 | 内藤義概(頼長) |
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天正20年(1592年)2月1日、徳川家康の家臣・内藤政長の長男として生まれる。 |
寛文10年(1670年)12月3日、父の隠居により家督を継ぐ。このとき、弟の遠山政亮に1万石を分与して湯本藩(のちの湯長谷藩)を立藩させた。藩政においては領内に防風林を植樹したり、仏閣や寺社の再建に励んだ。また、奥州俳壇の始祖と呼ばれるほどの教養人であり、和歌の方面では「夜の錦」,「桜川」,「信太の浮鳥」,「六百番俳諧発句集」,「六百番勝負付」,「七十番句会」など、多くの著作を残している。また、儒学者の葛山為篤に命じて磐城風土記の編纂に当たらせた。また近世箏曲の父と言われる八橋検校を専属の音楽家として五人扶持で召し抱えたこともあり、八橋の作品には義概の作詞になる曲もあるという。 |
内藤義英 | 内藤義孝 |
明暦元年(1655年)、磐城平藩の第3代藩主内藤義概の次男として生まれる。母は松平忠国の娘。長兄の義邦が早世したため、本来なら世子に指名されるはずだった。しかし父の寵臣である松賀族之助の讒言に加え、父・義概は50歳近くになって生まれた弟の義孝を溺愛していたことにより、病弱を口実として父に廃嫡され、一時幽閉された。このため、貞享2年(1685年)に義概が死去すると、義孝が家督を継ぐこととなった。 |
第3代藩主・内藤義概の3男。長兄の義邦は早世し、次兄の義英も松賀族之助による讒言や病弱を理由に廃嫡されたことに加え、父が義孝を藩主に据えたいという希望もあったことから世子に選ばれた。貞享2年(1685年)に父が死去したため家督を継いだ。
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内藤義稠 | 内藤政樹 |
元禄12年(1699年)9月16日生まれともされる。兄の義覚が早世したため嫡子となり、正徳2年(1712年)に父の義孝が病死したためその跡を継いだ。しかし藩政に見るところもなく、享保3年(1718年)に早世した。嗣子がなかったため、従弟にあたる政樹(伯父・内藤義英の長男)が跡を継いだ。 |
父の義英は祖父の義概によって廃嫡され、政樹が生まれた当時は江戸で隠居生活をしていた。享保3年(1718年)に先代の藩主・義稠が22歳の若さで嗣子もなく早世したため、義英の子である政樹が跡を継いだ。しかし若年のため、しばらくは義英が藩政を後見することとなった。 |
内藤政陽 | 内藤政脩 |
藩の財政悪化のため、家臣の半知借上や俸禄制の改定を行ったが、明和3年(1766年)の時点で借金は10万5563両という莫大なものであり、焼け石に水程度の改革でしかなかった。 |
宝暦2年(1752年)10月25日、尾張名古屋藩主・徳川宗勝の14男として名古屋で生まれる。幼名は徳十郎、元服時に、次兄で尾張藩主を継いだ徳川宗睦より偏諱を与えられて松平睦精と名乗る。明和7年(1770年)に延岡藩の第2代藩主・内藤政陽の養子となり、内藤政脩に改名した。10月29日に政陽が隠居すると家督を継いだ。 |
内藤政順 | 内藤政義 |
寛政8年(1796年)2月15日、江戸で生まれる。文化3年(1806年)に先代藩主の政和が若死にしたため、その跡を継ぐこととなった。蝋・和紙・菜種などの生産にも力を注ぎ、物産方役所や紙方会所を開設し、専売制を強化した。一方で自らの倹約には熱心ではなく、当時延岡に滞在した佐藤信淵から批判を受けたとされる。1812年(文化9年)、宮崎神宮の社殿を造営した。 |
近江彦根藩主・井伊直中の15男。井伊直弼(直中の14男)の異母弟に当たる。 |
内藤政挙 | |
嘉永5年(1852年)5月10日、遠江掛川藩主・太田資始の6男として江戸で生まれる。万延元年(1860年)に延岡藩の第7代藩主・内藤政義の養子となり、文久2年(1862年)10月24日に政義が隠居したため家督を継いだ。 |