父・内藤清長が晩年になって儲けた子の家長は徳川家康に仕え、義兄の内藤信成から内藤家の家督を譲られて跡を継いだ。 父の清長と同様に武勇に優れており、また弓の名手で「無双の弓手」と称えられた。また、父同様に一向宗の門徒でもあったが、三河一向一揆の時に家長は父と訣別して一揆方に加わらず、義理の伯父に当たる家康に従軍し、一揆衆を鎮圧するなどで忠節を貫き、家康から大いに信頼された。 以降も徳川家主要の合戦の多くに参加し、大いなる武功を挙げた。その功績から家康が関東に移った時、上総国佐貫の地に2万石の所領を与えられた。 慶長5年(1600年)、鳥居元忠や松平家忠らと共に伏見城を守備して石田三成ら西軍の挙兵を誘った。目論見どおり、三成ら西軍は挙兵したが、家長は元忠,家忠らと共に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で戦死した。享年55。家督は長男の政長が継ぎ、戦死した父の功績を賞されて1万石を加増されている。
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天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで初陣し、功績を挙げた。天正17年(1589年)、豊臣秀吉により豊臣姓を下賜された。 朝鮮出兵では肥前名護屋城に駐屯した。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で父が鳥居元忠や松平家忠らとともに戦死したため、その跡を継ぐこととなった。関ヶ原の戦いで政長は下野宇都宮で上杉景勝の南下に備え、戦後に戦死した父並びに自身の功績を賞されて1万石の加増を受け、上総佐貫3万石を領した。 慶長19年(1614年)、大久保長安事件で大久保忠隣の孫娘を娶っていたことから安房館山藩の里見忠義が改易されると、館山城の破却を命じられ、本多忠朝と共に里見氏改易後の安房の統治を任された。 同年、大坂冬の陣が始まると安房の留守を任された。翌年の大坂夏の陣では、江戸城の留守居役を任された。それらの功績により戦後の同年、1万石を加増された。元和5年(1619年)には5000石を加増され、4万5000石を領する大名となった。元和6年(1620年)、筑後柳川藩の田中忠政が嗣子無くして没したため、田中氏は改易となった。このとき、政長は城の受け取りを務めている。 元和8年(1622年)、陸奥磐城平7万石に加増移封された。また、寛永9年(1632年)には、肥後熊本藩の加藤忠広改易の際に再度城の受け取りを務めている。加藤氏は大藩だけに家臣達の抵抗が危惧されたが、政長の尽力によって無事受け取りを終えた。ただし、肥後に向かう途中政長の船酔いによって、急遽小倉藩に立ち寄ったため、予定外の上使到着に藩主・細川忠利は困惑した。江戸でこれを聞いた前藩主・細川忠興は、「左馬(政長)は豊臣秀吉の高麗陣に遇わないで良かった」と、皮肉をこめた書簡を忠利に送付している。 寛永11年(1634年)10月17日、67歳で死去した。跡を長男の忠興が継いだ。父のために菩提寺である善昌寺を創建し、岩城の治世期に七浜海岸に立てたという道山林という防風林がある。
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