<藤原氏>北家 秀郷流

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内藤信成 内藤信政

 『藩翰譜』では嶋田某の子で内藤清長の養子、あるいは母は松平広忠の寵愛を受けて信成を身籠り、嶋田景信に嫁して3月後に出産、事情を知った清長がこれを養子として育てたとの所伝ありとする。また生母は広忠の侍女で、小野次郎右衛門の娘という説もある。一方、『寛政重修諸家譜』では、内藤右京進某(義清)の娘と嶋田久右衛門景信の子とされている。
 弘治3年(1557年)に13歳で松平元信(徳川家康)に会見、一字を与えられて「信成」となり、その側近となった。永禄元年(1558年)三河広瀬城攻略に清長と共に従軍し、また三河一向一揆平定の後、その軍功により三河中島に600石の采地を与えられた。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで殿軍を務めた他、天正3年(1575年)の長篠の戦いの際、その功績を織田信長から賞賛されたと『寛政譜』に記述がある。
 その後も高天神城の戦いや小牧・長久手の戦いにて活躍。天正17年(1589年)6,000石を加増されて甲斐常光寺城の城主となる。天正18年(1590年)小田原征伐に参陣した際、豊臣秀吉がその「武備を感じ」目通りを許したという。家康の関東入国の後に伊豆国1万石を与えられて韮山城の城主となった。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、駿河沼津の三枚橋城を守備。慶長6年(1601年)に駿府城を与えられ、駿河において4万石の領主となる。同8年(1603年)に従五位下豊前守に任ぜられた。慶長11年(1606年)、采地を改められて近江国4万石を領し、長浜城を居所とした。慶長17年7月24日、長浜城において68歳で病没。

 永禄11年(1568年)、のちの長浜藩初代藩主・内藤信成の長男として生まれる。天正12年(1584年)16歳で小牧・長久手の戦いに参加、その功を徳川家康に賞せられる。天正14年(1586年)には19歳で大番頭となり、同18年(1590年)の小田原征伐、19年の九戸政実の乱などに従軍した。
 文禄4年(1595年)、従五位下・紀伊守となり、また家督を継いで慶長11年(1606年)、長浜城に住した。慶長20年(1615年)の大坂の陣では尼崎城の守備にあたり、同年閏6月采地をあらためて摂津国に移封され、高槻城を居所とした。元和3年(1617年)1万石の加増を受けて伏見城代となり、あわせて5万石を領した。同5年から大坂城代を務める。寛永2年(1625年)知行を近江,山城,紀伊に移され、翌3年大坂城において死去した。享年59。

内藤信広

 慶長16年(1611年)6月、徳川秀忠に召抱えられて小姓となる。同19年(1614年)御徒頭となり、大坂冬の陣に供奉、元和元年(1615年)上野国に采地1,000石を与えられる。同年5月7日、大坂夏の陣において戦功があり、のち小姓組組頭となる。
 元和3年(1617年)1月14日、従五位下東市正に叙任、のち寛永3年(1626年)書院組頭となる。同9年(1632年)4月8日大番頭に進み、また石見守に改めた。
 寛永10年(1633年)、安房国および上総国において加増4,000石を受ける。慶安元年(1648年)6月26日には大坂定番となり、また加増されて都合1万5,000石を領した。しかし家臣の一人がキリシタンとして処刑されると、その責を問われて罷免され、7,000石を減封された。
 慶安2年(1649年)3月15日、江戸において死去した。享年58。家督を長男の信光が継いだ。葬地は神田無量院とされ、のちこの寺が駒込に移転したという。