<藤原氏>北家 秀郷流

F911:内藤忠興  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤重清 ― 内藤忠興 ― 遠山政亮 F912:遠山政亮

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遠山政亮 内藤政貞

 寛永2年(1625年)、陸奥磐城平藩の藩主・内藤忠興の3男として生まれる。幼名は百助。寛文10年(1670年)12月、父の隠居のときに1万石を分与されて湯本藩主となった。分家ののち、浅草寺知楽院別当(宣存?)の意見に従い「遠山」姓を名乗った。延宝4年(1676年)11月に居所を湯長谷に移したため、湯長谷藩主となる。
 藩政においては、湯長谷城の築城、そして城下町の建設に尽力した。延宝8年(1680年)には、内藤忠勝乱心事件を食い止めた功績などを賞されて丹波国氷上郡などに新たに2000石を加増された。貞享4年(1687年)、大坂定番を命じられたことから河内国内に新たに3000石を与えられ、合計1万5000石を領することとなる。
 元禄6年(1693年)11月7日、大坂定番在任中に死去。実子はなく、養嗣子の政徳が跡を継いだ。
 辛辣な大名批評で知られる『土芥寇讎記』でも「うまれつき悠にして、行跡よし、家臣を助け育て奢ることしない。誉れの将なり」と高く評価されている名君である。 

 貞享2年(1685年)、土方雄賀の次男として生まれる。はじめ200石の旗本として幕府に仕えていたが、元禄16年(1703年)に第2代藩主・遠山政徳が死去したため、その養子として跡を継いだ。このとき、姓を遠山から本来の姓である内藤(初代藩主遠山政亮の父・内藤忠興の姓)に戻している。
 祖父の土方雄次は母(内藤政長の娘)と妻(内藤忠興の娘)共に内藤家出身であり、政貞が忠興の曾孫であったことから内藤家の分家である遠山家に養子入りした。
 宝永6年(1709年)3月に叙任し日光祭礼奉行などを務めた。享保7年(1722年)4月23日、享年38で死去。跡を長男の政醇が継いだ。 

内藤政養

 安政4年(1857年)7月7日、第11代藩主・政恒の3男として生まれる。幼名は長寿麿。政恒は政養が生まれる以前に養子の政敏を後継ぎにしていたため、兄2人の夭折の後に生まれた政養は政敏の養子となった。文久3年(1863年)8月19日、養父政敏の死去により家督を継いだ。
 慶応4年(1868年)4月3日、新政府軍から会津攻撃支援の命令を受ける。しかし、同年5月、奥羽越列藩同盟に参加した。政養は12歳ながら、自ら戦場に立って奮戦したという。同年6月29日、新政府軍の攻撃により湯長谷陣屋を攻略される。政養は仙台城下に避難する。 同年9月24日、新政府軍に降伏・謝罪を申し入れる。同年9月27日、新政府軍に降伏を認められて、謹慎を命じられる。同年10月10日、東京に移り、延岡藩邸に幽閉される。明治元年(1868年)12月7日、政養は新政府に抵抗したとして、養子の政憲に家督を強制的に譲らされた上で隠居することとなり、所領も1000石削減の1万4000石に減らされた。明治2年9月28日、謹慎を解かれる。明治44年(1911年)3月6日に死去した。享年55。