尾張徳川家→高須松平家

TG11:徳川義直  徳川家康 ― 徳川義直 ― 松平義行 MT71:松平義行

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松平義行 松平義柄

 尾張藩主・徳川光友の次男(実は3男)として誕生。母は3代将軍徳川家光の長女・千代姫。
 寛文6年(1666年)、従四位下・権少将・摂津守を授与される。延宝年間には、越後松平家の後嗣候補、徳川将軍家家綱の後継候補に挙がる。天和元年(1681年)、将軍・家光の外孫ということで信濃に3万石の新知を認められ、元禄13年(1700年)に美濃高須に移封され、その初代藩主となる。子の多くは夭折したため、元禄14年(1701年)、甥で徳川綱誠15男の義孝を養嗣子に迎える。正徳5年(1715年)、60歳で死去した。なお、義孝との養子縁組後に誕生し、唯一生き残った4男・武雅は、後に6代将軍・徳川家宣の弟・松平清武の養嗣子となって越智松平家を継ぐこととなった。
 藩主の入れ替えが頻繁に続く尾張徳川家の後見をしていたことでも知られる。 

 美濃国高須藩5代藩主。後に尾張徳川家世子となる。官位は従三位・左近衛中将、参議。
 高須藩4代藩主・松平義敏の長男として誕生。明和8年(1771年)6月13日、義敏の死去により家督を相続する。高須藩時代の名乗りは松平 義柄。安永3年(1774年)8月15日、10代将軍・徳川家治に御目見する。同年12月18日、従四位下・侍従・摂津守に叙任する。
 安永6年(1777年)1月25日、2人の息子(治休・治興)に先立たれていた本家の尾張藩主・徳川宗睦の養嗣子となり、将軍・家治の偏諱を受けて徳川治行と改名、従三位・左中将に昇進し、後に参議に任官した(代わって弟の松平義裕が高須藩主を継いだ)。しかし、寛政5年(1793年)8月晦日、養父・宗睦に先立ち死亡した。同年9月5日、死亡が公表された。
 尾張藩嫡子には、一橋家から斉朝(第11代将軍・徳川家斉の甥)が迎えられた。

松平義建 松平義生

 寛政11年12月13日(1800年1月7日)、松平義和(保友)の次男として江戸の水戸藩小石川邸で出生した。父・義和は当時水戸徳川家の部屋住み身分であったが、文化元年(1804年)に高須松平家に末期養子として入り、高須藩を相続した。兄・義質が早世したため、文化10年4月23日(1813年5月23日)、嫡子となる。文化12年4月28日(1815年6月5日)、11代将軍・徳川家斉に御目見する。文化13年12月16日(1816年2月1日)、従四位下侍従・掃部頭に叙任される。文政年中に摂津守に改める。父の死去により、天保3年3月6日(1832年4月6日)に家督を相続する。同年12月28日(1833年2月17日)、左少将に任官される。
 嘉永3年10月16日(1850年11月19日)、隠居し、5男の義比(後の徳川茂徳)に家督を譲った。文久2年8月20日(1862年9月13日)、64歳で死去した。
 高須松平家は参勤交代を免除された定府の大名家で、義建も藩領内で生活したことはないが、生前に2度の国入りをしており、お忍びで長良川鵜飼を見学したり、領民とも交流したりした記録が伝わる。また、同家の菩提寺である行基寺に伝わる記録によると、弘化4年(1847年)の滞在時に催した松茸狩りには、義建の側室とみられる「お千代」や「お花」といった女性たちも参加したとあり、外出が原則なかった大名家の女性としては異例である。
 松平義建の息子は多くが養子となって他の大名家を継いだが、その背景には高須松平家が尾張徳川家御連枝として高い格式を有し、子女の教育水準も充実していたことが挙げられる。特に、親藩を継いだ次男の慶勝,5男の茂徳(茂栄),7男の容保,8男の定敬の4人は「高須四兄弟」と呼ばれることがある。戊辰戦争時、尾張藩主となった慶勝は新政府側につき、対する会津藩主の容保と桑名藩主の定敬は幕府を支持して敵味方に分かれ、また一橋家を継いだ茂栄は徳川家の代表として新政府と交渉するなど、高須四兄弟はいずれもそれぞれの立場から幕末の動乱に対処した。
 なお、現在の徳川宗家当主の徳川家広は、義建の男系子孫に当たる。

 美濃国高須藩第14代(最後)の藩主。丹波国園部藩主・小出英教の次男として誕生した。初名は小出英周。
 明治2年(1869年)6月26日、高須藩13代藩主・松平義勇の養子となる(年齢は義勇が4歳下)。同年7月27日、義勇の隠居により家督を相続する。それに伴い、高須藩知事に就任する。明治3年(1870年)12月24日、高須藩と尾張藩の合併に伴い、藩知事は免職となった。
 明治8年(1875年)11月、徳川慶勝の養女・安子と再婚する。明治10年(1877年)7月、三等中警部心得となる。同年11月、一等少警部となる。明治11年(1878年)4月、権中警部となる。明治12年(1879年)4月、退職する。明治14年(1881年)5月、宮中祗候となる。同年9月、退職する。明治17年(1884年)7月8日、子爵となる。
 明治35年(1902年)、駒野城跡を城山村(現・岐阜県海津市)に小学校用地として寄付した。
大正9年(1920年)に64歳で死去。