MT43:松平定勝 | 松平親氏 ― 松平定勝 ― 松平定綱 | MT45:松平定綱 | ● |
リンク |
松平定綱 | 松平定良 |
---|---|
慶長元年(1596年)、荒川次郎九郎の養子となるが、同4年(1599年)家康の命により荒川氏から松平氏に復する。同7年(1602年)、初めて家康に拝謁、2代将軍・徳川秀忠に仕えるよう命ぜられる。同9年(1604年)、下総国山川領の内5千石を賜う。同12年(1607年)、従五位下・越中守に叙任。同14年(1609年)、山川1万5千石を賜い、大名となる。大坂の陣では書院番頭として出陣、その功により元和2年(1616年)、常陸国下妻2万石に移る。同4年(1618年)、掛川城3万石に転じ、さらに同9年(1623年)には淀城を修繕し城を守るよう命ぜられ3万5千石を賜う。寛永10年(1633年)、大垣城6万石へ転じる。翌年、従四位下に昇進。さらに同12年(1635年)、5万石の加増を受けて桑名城に入る。慶安4年(1651年)、江戸で卒去。享年60。江戸深川霊巌寺で火葬され、遺骨は桑名照源寺へ贈られ埋葬される。寛政9年(1797年)、神号・鎮国大明神と追祠される。 |
兄・定次の早世により嫡子となる。幼少時から聡明で知られ、慶安3年(1650年)に桑名城下で大洪水が起こったときには、自ら船に乗って領民の救助に務めている。慶安4年(1651年)12月25日に父が死去したため、慶安5年(1652年)2月23日に家督を継いで第4代桑名藩主となる。しかし将来を期待されていながら、生来から病弱だったためにまともに藩政を執ることはほとんどできず、療養のために有馬温泉に赴くことが多かった。明暦3年(1657年)7月18日、有馬温泉から帰国中に病に倒れ、京都で死去。享年26。跡を養子の松平定重が継いだ。 |
松平定重 | 松平定信 |
伊勢桑名藩の先代藩主である松平定良の養嗣子となり、明暦3年(1657年)に桑名藩主となる。宝永7年(1710年)5月、郡代・野村増右衛門を経理上の不手際により打ち首にし、野村の親族44人と関係者の役人370人を死刑,追放,罷免などの処分にした事件が発生。その重すぎる処分が幕府の不興を買い、閏8月15日に高田藩11万3000石へ移封された。正徳2年〔1712年)9月7日、5男の定逵に家督を譲って隠居し、享保2年(1717年)10月27日に74歳で死去した。 |
宝暦8年(1758年)12月27日、御三卿田安徳川家初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄・徳川治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継を目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、田沼の権勢を恐れた一橋家当主・一橋治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥国白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。 |
松平定永 | 松平定猷 |
松平定信の長男として生まれ、父の隠居に伴い家督を相続。溜間詰。文政6年(1823年)、定永を桑名に、桑名の松平忠堯を武蔵忍に、忍の阿部銕丸を白河へ移す三方領替えが命じられた。この原因としては、隠居してなお存命だった父・定信が父祖の地に国替えしたいという希望によったとされているが、異説として白河藩に命じられていた江戸湾警備の負担に耐え切れなくなった定永が文政4年(1821年)に江戸湾に近くほぼ同規模の下総国佐倉藩への転封を申し入れたところ、佐倉藩主の堀田正愛が激しく反発して紛争となり、佐倉藩が白河藩に替わって江戸湾警備を引き受ける代わりに佐倉藩を納得させるために懲罰的転封として桑名に移されたとする説もある。 |
天保13年(1842年)、父の死により幼少の身で家督を継いだ。しかし藩主就任の年、桑名で大火と飢饉が発生する。その後も嘉永7年(1854年)には安政東海地震が起こるなど、その治世は天災のために多難を極め、財政は天災に対する救済費、対策費から幕府の手伝い普請などで火の車となった。また水害が起こるなどもしたが、一方では豊作で藩蔵が満杯になって大坂からの借財も5年間はしなくなるなど、恵まれてもいたようである。 |
久松定敬 | 久松定教 |
安政6年(1859年)に桑名藩主・松平定猷が死ぬと、長男・万之助(後の桑名藩主・松平定教)が3歳と幼少であったため、14歳で定猷の娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となり、従五位下越中守に叙任される。 |
安政6年(1859年)に父が死去したときには3歳の幼少だったため、家督は定猷の養子となった松平定敬が継ぎ、定教は定敬の養子となった。 |