久松松平

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平定勝 MT43:松平定勝

リンク MT44MT45MT46MT47
松平定勝 松平定吉

 永禄3年(1560年)正月、尾張国阿久居城で誕生。生後、間もなく異父兄の松平元康より、家門に准じて松平氏の称号並びに葵紋を賜う。異父兄・家康に従い長篠の戦,天目山の戦いに従軍した。本能寺の変直後の天正10年(1582年)6月、勢いを持った羽柴秀吉は家康に対して、定勝を羽柴家の養子にさせるように要求した。だが、生母・於大の方の要望により、松平家にとどめられる。このため、彼は一時的に家康からは疎んじられたとも言われているが、異父弟とはいえ親子ほどの年の離れた末弟であり、家康からは可愛がられていたとされる。
 天正18年(1590年)9月、下総国小南3000石を賜う。慶長5年(1600年)、4千石を加増され、伊勢国長島城主となる。後に2万石を加増され、計2万7000石の領主となる。同6年(1601年)2月、3000石を加増され、山内一豊に代わり遠江掛川藩主となる。その3ヶ月後、従五位下隠岐守に叙任。「隠岐守」の官名は、歴代にわたり松山藩松平家の拝領官名となる。
 同7年(1602年)3月、山城伏見城で家康の10男(後の徳川頼宣)が誕生。家康は、この男子に定勝の幼名である長福丸の名を譲るよう命じる。これにより、長福丸の名は紀伊家の嫡男の名となる。同年8月、母於大の方が伏見城で逝去。同月末、伝通院の霊柩が伏見城を出立。その護衛に当たる。同10年(1605年)5月、娘の阿姫が家康の養女となり、山内忠義と婚約する。家康より化粧料として豊後国山田郷1千石を阿姫に賜う。
 同12年(1607年)、伏見城の城代に就任する。元和2年(1616年)、6万石を加増され、桑名藩11万石の城主となる。一説には翌年に家康が駿府城において薨去した時に、死の床で家康から2代将軍・徳川秀忠の相談役となるように遺言されたとも言われ、後に3代将軍・徳川家光が大老職を設置した際も生前の定勝の存在を意識していたとも言われている。
 家康の死後、甥である秀忠から篤く敬われ、同9年(1623年)7月、秀忠より侍従職を進められるも固辞。その2カ月後、左近衛権少将に任ぜられる。これにより桑名少将殿と奉称される。翌年、居城・伊勢桑名城にて卒去。享年65。遺骸は桑名照源寺に葬られ、霊牌は江戸伝通院にも納められ、後に松山大林寺、今治松源院(廃寺)にも祀られる。
 文政6年(1823年)、11代・松平定通により息長福玉命の神号を贈られ、松山城に東雲神社を勧請し祀られる。神号はのちに東雲大明神と改められる。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで伯父・家康に従う。翌年、従五位下遠江守に叙任。同8年(1603年)、家康の面前で鷺を射落としたが、家康に「無駄な殺生」だと叱責され、それを恥じて掛川にて自害してしまう。享年19。自照院殿と贈られ、掛川真如寺に葬られる。代わって、弟の松平定行が嫡子となる。
 文政11年(1828年)、稚国玉命と神号を贈られ、社号を豊坂神社といい、松山城がある勝山山麓の東雲神社内に勧請され祀られる。松平定吉を扱った文芸作品が存在し、田宮虎彦の『鷺』などが有名である。

松平定実 松平忠勝

 慶長10年(1605年)、家康に初めて拝謁する。家康の命により駿府城に召され、13歳まで駿府城大奥で養育される。慶長17年(1612年)、従五位下・信濃守に叙任する。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では家康に従う。翌年の夏の陣では大功を挙げるが、軍令に違反し持ち場を離れたとして家康の怒りを買い、次兄・定行の領地に蟄居した。しかし、大和高取藩主・本多政武や伊達家家臣・片倉景綱らは、天王寺の戦いで真田信繁に攻め込まれ大混乱となった徳川方の中で、その場にとどまって奮戦した定実の活躍を見届けており、伊達政宗らは「家康公より問い合わせがあれば、定実のために弁護する用意がある」と定実やその家臣に書状を送っている。
 元和年間には書院組頭を命ぜられるが、病により辞退した。さらに、寛永元年(1624年)長島7千石、翌年には長島城2万石を賜うが、いずれも病により辞退する。寛永9年(1632年)、桑名で卒去した。

 

 江戸時代の徳川頼宣の家臣で、後に家格寄合の紀州藩藩士。久松松平家の松平定勝の養子で、実父は改易となった桜井松平家の浜松藩主松平忠頼。母は織田長益の娘。妻は大崎玄蕃の娘とされる。江戸幕府14代目将軍徳川家茂の生母実成院の実家である紀州藩高家の松平六郎右衛門家の先祖である。
 忠頼の3男として誕生するが、慶長14年(1609年)に実父が水野忠胤主催の茶会の刃傷沙汰で殺害された上に兄の松平忠重が幼少故に浜松藩主家桜井松平家は改易となる。このために伊勢国桑名藩主であった定勝の養子となり、その扶養を受ける。
 その後、徳川頼宣がいる駿府城に引き取られる。元和5年(1619年)に頼宣が紀州藩主となり、和歌山城に移るとこれに同行して三木町御門内の屋敷と1000石を拝領され、寄合組の礼式を与えられる。
 後に病気により暇をもらい、山城国嵯峨において、従兄弟の松平丹波守から毎年500石の援助を貰いながら閑居し、寛文4年(1664年)に死去。