MT01:松平親氏 | 松平親氏 ― 松平定勝 | MT43:松平定勝 |
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松平定勝 | 松平定吉 |
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永禄3年(1560年)正月、尾張国阿久居城で誕生。生後、間もなく異父兄の松平元康より、家門に准じて松平氏の称号並びに葵紋を賜う。異父兄・家康に従い長篠の戦,天目山の戦いに従軍した。本能寺の変直後の天正10年(1582年)6月、勢いを持った羽柴秀吉は家康に対して、定勝を羽柴家の養子にさせるように要求した。だが、生母・於大の方の要望により、松平家にとどめられる。このため、彼は一時的に家康からは疎んじられたとも言われているが、異父弟とはいえ親子ほどの年の離れた末弟であり、家康からは可愛がられていたとされる。 |
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで伯父・家康に従う。翌年、従五位下遠江守に叙任。同8年(1603年)、家康の面前で鷺を射落としたが、家康に「無駄な殺生」だと叱責され、それを恥じて掛川にて自害してしまう。享年19。自照院殿と贈られ、掛川真如寺に葬られる。代わって、弟の松平定行が嫡子となる。 |
松平定実 | 松平忠勝 |
慶長10年(1605年)、家康に初めて拝謁する。家康の命により駿府城に召され、13歳まで駿府城大奥で養育される。慶長17年(1612年)、従五位下・信濃守に叙任する。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では家康に従う。翌年の夏の陣では大功を挙げるが、軍令に違反し持ち場を離れたとして家康の怒りを買い、次兄・定行の領地に蟄居した。しかし、大和高取藩主・本多政武や伊達家家臣・片倉景綱らは、天王寺の戦いで真田信繁に攻め込まれ大混乱となった徳川方の中で、その場にとどまって奮戦した定実の活躍を見届けており、伊達政宗らは「家康公より問い合わせがあれば、定実のために弁護する用意がある」と定実やその家臣に書状を送っている。
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江戸時代の徳川頼宣の家臣で、後に家格寄合の紀州藩藩士。久松松平家の松平定勝の養子で、実父は改易となった桜井松平家の浜松藩主松平忠頼。母は織田長益の娘。妻は大崎玄蕃の娘とされる。江戸幕府14代目将軍徳川家茂の生母実成院の実家である紀州藩高家の松平六郎右衛門家の先祖である。 |