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松平定房 | 松平定郷 |
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慶長16年(1611年)、伯父の徳川家康に初めて拝謁した。元和7年(1621年)、従五位下・美作守に叙任された。寛永2年(1625年)、伊勢国長島に知行地7000石を賜わった。同12年(1635年)、伊予今治藩3万石に加増転封された。正保4年(1647年)、南蛮船の長崎入港に際し、兄で長崎探題の松平定行に従い長崎へ出向した。寛文5年(1665年)、江戸城代役(大留守居)を命ぜられ、武蔵国,下総国,常陸国の内に1万石を加増された。さらに従四位下に昇進された。寛文9年(1669年)、鷹司房子の将軍家入内に際し、定房が4代将軍・徳川家綱の名代として参内し、侍従に昇進された。
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享保8年(1723年)に従兄で4代藩主・松平定基の婿養子となり、享保17年(1732年)2月2日の養父の隠居により跡を継いだ。この時、従五位下・筑後守に叙任する。 |
松平定剛 | 松平勝道 |
天明6年(1786年)12月に従五位下・壱岐守に叙任する。寛政2年(1790年)4月5日、父の隠居によ跡を継いだ。藩政においては文化5年(1808年)から文政7年(1824年)まで奏者番を務め、農業生産の安定化、地域格差の撤廃などに尽力した。文化14年(1817年)5月には藩校・克明館を創設し、文武の奨励と士風の綱紀粛正、領民への教育普及などを図った。瀬戸浜塩田の着工なども行なっている。 |
天保5年(1834年)3月26日に従兄で8代藩主・松平定芝の婿養子となり、同年12月22日に従五位下・若狭守に叙任する。天保8年(1837年)9月12日、定芝の死去により家督を相続した。 |
久松定法 | 久松定弘 |
天保8年(1837年)に父が死去したときは幼少のために跡を継げず、代わりに定芝の養子となっていた勝道が跡を継ぐ。定法は天保11年(1840年)5月に勝道の養子となった。嘉永3年(1850年)12月に従五位下・壱岐守に叙任する。文久2年(1862年)11月、勝道が隠居したため、跡を継いで藩主となる。 |
父は上総大多喜藩主・松平正義の長男正晴で、その長男として上総国大多喜で生まれる。明治4年12月27日(1872年2月5日)旧伊予今治藩主・久松定法の養子となる。明治5年8月7日(1872年9月9日)養父の隠居に伴い家督を継承。1884年7月8日、子爵を叙爵した。 |