久松松平

MT43:松平定勝  松平親氏 ― 松平定勝 ― 松平定房 MT46:松平定房

リンク
松平定房 松平定郷

 慶長16年(1611年)、伯父の徳川家康に初めて拝謁した。元和7年(1621年)、従五位下・美作守に叙任された。寛永2年(1625年)、伊勢国長島に知行地7000石を賜わった。同12年(1635年)、伊予今治藩3万石に加増転封された。正保4年(1647年)、南蛮船の長崎入港に際し、兄で長崎探題の松平定行に従い長崎へ出向した。寛文5年(1665年)、江戸城代役(大留守居)を命ぜられ、武蔵国,下総国,常陸国の内に1万石を加増された。さらに従四位下に昇進された。寛文9年(1669年)、鷹司房子の将軍家入内に際し、定房が4代将軍・徳川家綱の名代として参内し、侍従に昇進された。
 延宝2年(1674年)、江戸城代役を辞職し隠居し、薙髪し安心軒と号した。延宝4年(1676年)6月28日、領国の今治で卒去した。享年73。松源院で葬儀が行われ、実相院殿憲誉安心大居士と号を贈られた。今治国分山へ葬られた。

 

 享保8年(1723年)に従兄で4代藩主・松平定基の婿養子となり、享保17年(1732年)2月2日の養父の隠居により跡を継いだ。この時、従五位下・筑後守に叙任する。
 藩政においては、享保の大飢饉により大雨と旱魃が相次ぎ、虫害にも苦しめられ、本来なら3万石のところが5000石ほどしか収穫できず、死者が相次ぎ、御用銀の借り入れや神社の祈祷を行なうほどであったという。延享5年(1748年)2月から宝暦12年(1762年)まで大坂加番を務めている。宝暦13年(1763年)には先代からの蒼社川の改修工事が完成した。
 宝暦13年(1763年)4月19日に死去した。享年62。長男・定温は前年に早世していたため、定温の長男・定休が跡を継いだ。

松平定剛 松平勝道

 天明6年(1786年)12月に従五位下・壱岐守に叙任する。寛政2年(1790年)4月5日、父の隠居によ跡を継いだ。藩政においては文化5年(1808年)から文政7年(1824年)まで奏者番を務め、農業生産の安定化、地域格差の撤廃などに尽力した。文化14年(1817年)5月には藩校・克明館を創設し、文武の奨励と士風の綱紀粛正、領民への教育普及などを図った。瀬戸浜塩田の着工なども行なっている。
 文政7年(1824年)6月5日、長男・定芝に家督を譲って隠居する。天保14年(1843年)1月16日に死去。享年73。

 天保5年(1834年)3月26日に従兄で8代藩主・松平定芝の婿養子となり、同年12月22日に従五位下・若狭守に叙任する。天保8年(1837年)9月12日、定芝の死去により家督を相続した。
 天保14年(1843年)10月1日から文久2年(1862年)閏8月23日まで奏者番を務めた。この間、弘化3年(1846年)12月には駿河守に転任、嘉永6年(1853年)、将軍が交代して徳川家定が就任すると、その偏諱(「定」の字)を避ける形で初名の定保から勝道に改名した。藩政においては文治政策に尽力し、種痘を実施し、万延元年(1860年)には古江浜塩田を完成させるなどした。文久2年(1862年)11月21日、自身の養子となっていた定芝の3男・定法に家督を譲って隠居し、慶応2年(1866年)8月6日に死去した。享年54。

久松定法 久松定弘

 天保8年(1837年)に父が死去したときは幼少のために跡を継げず、代わりに定芝の養子となっていた勝道が跡を継ぐ。定法は天保11年(1840年)5月に勝道の養子となった。嘉永3年(1850年)12月に従五位下・壱岐守に叙任する。文久2年(1862年)11月、勝道が隠居したため、跡を継いで藩主となる。
 藩政においては、文久3年(1863年】に軍備を洋式軍制に改め、今治海岸に砲台を創設した。幕末期の動乱の中では、佐幕派と尊王派の間で仲介,周旋などに尽力したが、慶応2年(1866年)の第二次長州征討での幕府軍敗退を契機に、将軍・徳川家茂にその中止を進言しながら、次第に薩長側に与するようになる。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に従って京都に出兵し、御所を警備した。後に甲府城の警備、江戸,奥州,会津征伐にも出兵した。同年、太政官布告により、本家伊予松山藩松平家とともに、源姓松平氏から本来の菅原姓久松氏に復姓する。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となる。その後、東京へ移った。
 明治34年(1901年)9月18日に死去。享年68。

 父は上総大多喜藩主・松平正義の長男正晴で、その長男として上総国大多喜で生まれる。明治4年12月27日(1872年2月5日)旧伊予今治藩主・久松定法の養子となる。明治5年8月7日(1872年9月9日)養父の隠居に伴い家督を継承。1884年7月8日、子爵を叙爵した。
 漢学を島田篁村、英語を河津祐之、ドイツ語及び普通学(一般教養科目)を司馬凌海,エルヴィン・クニッピング,ルドルフ・レーマンらに学んだ。1874年11月10日、留学のためドイツ帝国へ出発し、オイゲン・デューリングなどに師事し哲学と文学について学んだ。
 1878年12月8日に帰国し、1879年に私塾「理文学舎」を開き、西洋哲学,ドイツ文学などを教えた。1883年に理文学舎を閉め、同年8月、内務省御用掛准奏任出仕となる。以後、同権少書記官,警官練習所幹事,内務省参事官,外務省公使館書記官,第一高等中学校哲学授業嘱託・同教諭などを務めた。
 1890年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、1891年3月、公使館書記官と第一高等中学校教諭を依願退職した。茶話会,懇話会,研究会などに所属して活動し、1904年7月10日まで2期在任した。その後、東亜火災保険相互会社取締役会長を務めた。