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松平定行 | 松平定長 |
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慶長6年(1601年)、伯父・家康に初めて拝謁。翌年、従五位下・河内守に任ぜられる。次男であるが近江国蒲生郡の内2千石を賜う。翌年、兄・定吉の早世により嫡子となる。同10年(1605年)9月、家康の命により島津忠恒(家久)の養女を室とする。慶長12年(1607年)、父・定勝より掛川城3万石を譲られ、大名となる。大坂の陣では父・定勝とともに伏見城を警衛する。元和3年(1617年)、定勝の世子になり、掛川を幕府に還付、桑名に移る。 寛永元年(1624年)、定勝の卒去により遺領桑名藩11万石を継承。3年後、隠岐守に転任し従四位下に昇進。同11年(1634年)、従甥・徳川家光の上洛に際し、桑名より供奉、家光の参内前に侍従に叙任。家光の参内では騎馬の供奉をつとめる。 |
寛文2年(1662年)、長兄・松平定盛の廃嫡と前後して父・定頼も急死し、遺領松山藩15万石を継承する。翌3年、三津浜に魚市場を開くなど民政に尽くす。この年、従五位下から従四位下に昇る。その他、道後湯月宮(現・伊佐爾波神社)や味酒明神(現・阿沼美神社)などを再興するなど祭祀施設の興隆にも尽くす。定長は太平の御世らしく連歌にも長じ多くの名作を残した。また、弓術の名手でもあり同4年(1664年)には、将軍・徳川家綱の前で弓射を披露している。 |
松平定直 | 松平定英 |
延宝2年(1674年)、又従兄に当たる松山藩主松平定長の養嗣子となり、同年に定長が死去したため松山藩主に就任。この年に従五位下淡路守に任じられその3年後には隠岐守に転じ、従四位下に昇る。 |
長兄の定仲と次兄の鍋之助の早世により嫡子となり、宝永7年(1710年)、従五位下・飛騨守に任ぜられる。享保3年(1718年)、江戸より松山藩世嗣として帰国。松山城二ノ丸に入る。享保5年(1720年)、父の卒去により松山藩15万石を継承した。その3日後、隠岐守に転任。家督継承に際し、父の遺言に従い内分1万石が弟の定章に分知され、松山藩内に松山新田藩1万石が誕生した。 |
松平定喬 | 松平定静 |
享保15年(1730年)、従五位下・山城守に叙任。その3年後、父の死去により家督を継承。2カ月後、隠岐守に転任。 |
延享4年(1747年)、父・定章の卒去によって遺領松山新田藩1万石を継承。同年、従五位下備中守に叙任。明和2年(1765年)、従兄弟で宗家藩主の松平定功の急病によって養嗣となり、翌日本家を継承する。新田藩1万石は松山藩に返還されることなく、幕府に返上され、松山新田藩は消滅する。 |
久松定国 | 久松定則 |
明和5年(1768年)、伊予国松山藩第8代藩主・松平定静の嫡男・熊太郎が夭折すると、幕命によって定静の養嗣子となる。安永元年(1772年)、従四位下・中務大輔に叙任。安永8年(1779年)7月、養父・定静の卒去により遺領松山藩15万石を継承する。同年9月、隠岐守に転任。続いて11月には溜間詰に任ぜられ、さらに侍従に昇進。在国中、天明4年(1784年)元旦夜中に、松山城天守に落雷。天守をはじめとした本壇が焼失する。定国は直ちに急使を江戸へ派遣、遅参を請う。さらに、松山城の再建を幕府に願い上げ、許可される。寛政6年(1794年)、光格天皇に拝謁。その後、左近衛権少将に昇進。 |
長兄・元之丞の夭折により、寛政6年(1794年)に嫡男となる。文化元年(1804年)、父の死去により家督を継承する。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌文化2年(1805年)、松山二番町横町に初めての藩校興徳館を設立、杉山熊台を教授として藩士の指導に当たらせるなど文化の興隆に貢献した。文化5年(1808年)には、菩提寺の一つ松山法龍寺の寺格を高めた。 |
久松定通 | 久松勝善 |
文化6年(1809年)、兄の松平定則の卒去により遺領松山藩15万石を継承。叔父で前老中の松平定信より定通の名を進められる。先代・定則の遺志を受け継ぎ、江戸松山藩邸には藩校三省堂を設立。その甲斐あって松山では生徒数増加のため興徳館が手狭となり、松山城内東門付近に移築し、修来館と改称。同11年(1814年)には修来館を拡充させ、明教館を創設。文武両道の振興、弛緩した気風の刷新、綱紀の粛正をはかる。定通は文化面のみならず殖産興業や倹約厳行などをすすめ、松山藩中興の祖として仰がれ、後世「爽粛院時代」と称される。それは叔父であり前老中兼将軍補佐であった定信による影響が大きい。同年、従五位下・隠岐守に叙任。翌年には従四位下に昇る。 |
薩摩藩主島津斉宣の11男。天保3年(1832年)、養父・定通の養嗣となる。同6年(1835年)、定通の卒去により遺領松山藩15万石を継承。まもなく、隠岐守に転じ溜間詰に任ぜられる。同8年(1837年)、大塩平八郎の乱に出兵。同年、12代将軍・徳川家慶の名代として御使に任ぜられ上洛するも、仁孝天皇不予のため拝謁は賜らなかった。天皇の思し召しにより、江戸へ帰館後、左近衛権少将に昇任。 |
久松勝成 | 久松定昭 |
弘化4年(1847年)、養父勝善の養嗣子となる。同年、従四位下に叙され、溜間詰格に任ぜられる。続いて刑部大輔に任ぜられ、のちに式部大輔に転任、侍従に昇る。嘉永4年(1851年)、溜之間詰に任ぜられる。安政3年(1856年)、養父・勝善の卒去により遺領松山藩15万石を継承し隠岐守に転任する。勝成もまた子宝に恵まれず、同6年(1859年)、先代・勝善の娘(貞恭院殿)を養女とし、藤堂高猷の5男・練五郎(のちの松平定昭)を配して養子とする。 |
安政6年(1859年)、松山藩13代藩主・勝成の養嗣となる。万延元年(1860年)、従四位下・式部大輔に叙任され、溜間詰格に任ぜられる。さらに翌年、侍従に昇進し溜間詰に任ぜられる。慶応2年(1866年)、左近衛権少将に昇進。その間、養父・勝成に従い京都の警護や長州征伐に加わる。 |