徳川将軍家→越智松平家

TG03:徳川家光  徳川家光 ― 松平清武 MT62:松平清武

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松平清武 松平武元

 越智松平家の祖。右近衛将監。寛文3年(1663年)10月20日、甲府藩主・徳川綱重の次男として誕生。徳川家宣と同母弟であったが生母の身分が低かったため、家臣の越智喜清に養われて延宝8年(1680年)5月28日にその家督を継ぐ。元禄10年(1697年)11月には叔父である5代将軍・徳川綱吉に初御目見してその偏諱を授かり、吉忠と名乗る。宝永6年(1709年)に綱吉が没して実兄の家宣が将軍に就任すると、寄合衆に任じられた。この時に家宣と養父の偏諱を合わせて清宣に改名する。
 宝永4年(1707年)1月11日、2万4000石の館林藩主として大名に列する。その後、松平姓を名乗ることを許され、宝永6年(1709年)にも加増を受けた。正徳2年(1712年)には家宣の死去に際しての遺言で加増を受け、最終的には5万4000石の大名となった(諱を清武に改めたのもこの頃と推測される)。そして、館林城の築城などに努める。
 着任当初は税を軽くして領民を憐れんだため喜ばれたが、米の暴落により藩財政が困窮すると重税を強いたため、領民の不満が爆発して、享保3年(1718年)に百姓一揆と江戸藩邸への強訴が起こる(館林騒動)。これに対して、清武は百姓側の指導者を死罪に処したが、年貢減免を認めざるを得なくなった。
 享保9年(1724年)9月16日、死去した。享年62。嫡男・清方は早世していたため、尾張徳川家の連枝の高須藩松平家から養嗣子として迎えていた武雅(松平義行の4男)が跡を継いだ。清武の死により、家光の男系は完全に断絶した。
 7代将軍・徳川家継が危篤状態に陥った時、家宣の正室だった天英院は8代将軍の候補として清武を推したという。清武が家継の叔父であり、血統的に最も近かったのが理由であるが、清武には将軍家の家督相続者として相応しくないとされる理由が主に2つあった。
 家督を相続した越智家が旗本ですらない一親藩の家士という極めて低い身分であったこと、また大名に列したのも44歳と極めて遅かった(このとき既に54歳)ため、その昇進のあまりの遅緩が経歴上の問題とされた。さらに、清武自身にも将軍職に対する野心は特になく、これらの理由から天英院は清武を諦め、紀州藩主・徳川吉宗を推した。

 越智松平家3代。右近衛将監。親藩(御家門)ながら江戸幕府の寺社奉行,老中を務めた。
 常陸国府中藩の第3代藩主・松平頼明の4男として誕生した。母は婉(林氏)。 『寛政重修諸家譜』によれば、正徳3年(1713年)生まれであるが、系譜集『源流綜貫』では享保4年(1719年)1月11日と記されており、幕府には実年齢より年長に届けられたとみられる。
 享保13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり家督を相続、その直後に陸奥棚倉に移封された。稲葉迂齋(稲葉正義,稲葉正誼とも)に師事する。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し、上野館林に再封される。延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。
 徳川吉宗,家重,家治の3代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた。武元死後は、4男の武寛が家督を継いだ。

 

 

 

松平武寛 松平武成

 越智松平家4代。宝暦4年(1754年】10月7日、先代藩主・松平武元の4男として誕生した。兄3人の早世により嫡子となり、明和5年(1768年)に主計頭に任官する。安永8年(1779年)、父の死去により家督を継ぎ、右近将監に遷任する。安永9年(1780年)に奏者番に任じられる。天明3年(1783年)の天明の大飢饉で大被害を受けたため、救済に尽力し、同時に90歳以上の高齢者に米を与えるなどしている。
 天明4年(1784年)3月26日に死去、享年31。跡を長男の斉厚が継いだ。

 尾張藩主・徳川慶勝の弟で、会津藩主・松平容保と松平定敬の兄に当たる。天保13年(1842年)、先代藩主の松平武揚が若死にしたため、その養嗣子として跡を継ぐ。藩財政再建のために天保14年(1843年)より倹約令を出し、さらに弘化3年(1846年)には横井小楠の意見を用いて山林の藩経営化や瓦・陶器の製造,養蚕業や製鉄業,製糸業,鉱山開発などの産業奨励に尽力することで藩政再建を目指したが、弘化4年(1847年)9月20日に23歳の若さで死去した。

 

松平武聰

 天保13年(1842年)1月26日、水戸藩主徳川斉昭の10男として生まれる。幼名は十郎麿。徳川慶喜は異母兄に当たる。弘化4年(1847年)11月29日、先代藩主・松平武成の末期養子として越智松平家を相続する。安政元年(1854年)12月15日、従四位下侍従・右近将監に叙任。
 嘉永6年(1853年)、倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに高津川の治水工事や河鰭監物を登用して石見半紙,養蚕業などの殖産興業化を推し進めて藩財政を再建した。
 幕末期の動乱の中では、斉昭の子で慶喜の弟であることから佐幕派に与した。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐に参加したものの、武聰は病に臥していたために指揮が執れず、長州藩の大村益次郎率いる精強な軍勢の前に山本半弥率いる藩軍は壊滅した。長州軍が浜田領に侵攻すると、7月18日に浜田城に火を放って豊後国杵築へ逃亡する。さらに松江を経て鳥取に移った。浜田は長州藩の占領下に置かれたため、慶応3年(1867年)3月、飛び地である鶴田に逃れて鶴田藩主となった。後に藩は2万8,000石、6万1,000石に加増される。
 明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により鶴田藩知藩事に就任する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により知藩事を免職。明治6年(1873年)3月23日、隠居して長男・武修に家督を譲る。明治15年(1882年)11月7日、41歳で死去。