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徳川家光 | 徳川家綱 |
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江戸城西の丸に生まれる。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝,松平信綱らの小姓が付けられる。
詳細はWikipedia(徳川家光)参照
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父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。
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徳川綱吉 | 徳川徳松 |
江戸城に生まれる。慶安4年(1651年)4月、近江,美濃,信濃,駿河,上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任。将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改め、館林藩主時代は松平姓を名乗る。 |
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男。母は小谷正元の娘伝(瑞春院)。延宝8年(1680年)5月、父が伯父の4代将軍徳川家綱の継嗣となったため、2歳で家督(館林徳川家)を継いだ。11月27日、神田の父の屋敷から江戸城西の丸に移り、神田邸の家臣団も付き従った。他に松平忠冬,堀田正英,内藤重頼,黒田直邦,岡田俊陳,稲垣重定,本庄宗資,堀田正休,川勝隆尚らが徳松に仕え、老中・板倉重種も徳松付の西の丸老中を兼ねた。 |
徳川家宣 | 徳川家継 |
父が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗った。生母は寛文4年(1664年)に死去している。 |
第6代将軍・徳川家宣の4男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、世良田鍋松と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。家宣の子は病弱で、みな早世し、鍋松だけが生き残った。 |
徳川綱重 | |
母・夏が綱重を身ごもった際、家光は厄年にあたっており、災厄を避けるために姉の天樹院を養母とした。家光が亡くなる直前の1651年(慶安4年)4月、甲府藩15万石に封じられ、江戸・桜田の屋敷に住んだ。所領は甲斐国・武蔵国・信濃国・駿河国・近江国に散在した。その後、参議に補任がなされ、その唐名から甲府宰相の異名で呼ばれる。 |