徳川家

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徳川吉宗 徳川家重

 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の4男として生まれる。母は紀州徳川家の召し使いで巨勢六左衛門利清の娘・浄円院(於由利の方)。和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、光貞の目に止まり、湯殿において手がついたという伝説は有名である。母の身分に問題があったためか、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られた。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の流れの徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八木将軍)と呼ばれていた。この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人となっている。
 吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府徳川家は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩にされ、甲府徳川家の藩士は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通,有馬氏倫ら大禄でない者を二十数名選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から好感を持って迎えられた。
 将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣時代からの側用人であった間部詮房や新井白石を罷免し、側用人政治から将軍親政に復した。吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。そして、第4代将軍・徳川家綱時代から続いていた学問を奨励する文治政治を見直し、武芸を奨励する武断政治を志した。一方で年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いたが、江戸幕府の三大改革の中で最も成功したものとして高く評価されている。
この当時、近松門左衛門の人形浄瑠璃の影響で流行した心中を抑制するために、心中未遂で生き残った男女を人通りの多い場所でさらしものにさせる、といったことも行っている。
 延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なおこのとき、病弱な家重より聡明な次男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの、知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。
 宗武,宗尹は養子には出さず、江戸城内にとどめたまま別家に取り立て、田安家,一橋家(両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。
 将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した。享年68(満66歳没)。寛永寺に葬られている。

 

詳細はWikipedia(徳川吉宗)参照  

 

 母は側室・大久保氏(お須磨の方)。父・吉宗と正室との間の子がいなかったため世子とされた。家重は生来虚弱の上、脳性麻痺とも推測されている障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、比宮増子と結婚した。
 言語不明瞭に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟・徳川(田安)宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中・松平乗邑によって廃嫡されかけられたこともあった。しかし長子相続ということで、延享2年(1745年)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承は家重の長男・徳川家治が非常に聡明であったことも背景にあったと言われている。
 家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度を確立するなど、幾つかの独自の経済政策を行った。しかしながら負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により一揆が続発し、社会不安が増していった。また、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため忠光を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。
 大岡忠光は権勢に奢って失政,暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に大岡忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称した。宝暦11年(1761年)6月12日、死去。数え年51歳。
『徳川実紀』には、無能な将軍だったが、幕閣の大岡忠光や父・吉宗の遺産もあって、何とか無事に平穏を保ったと言われているのである。その一方で、田沼意次や大岡忠光のような優秀な側近を見出して重用しており、人事能力が優れていたと評する見方もある。

竹姫 利根姫

 5代将軍・徳川綱吉の側室・大典侍の局(寿光院)は子に恵まれなかったため、姪にあたる竹姫を自身の養女とすることを望み、宝永5年(1708年)に綱吉と大典侍の局の養女として江戸城北の丸に迎えられる。将軍の側室が養女をとるのは異例のことで、当時大きく話題になったという。
 会津藩主・松平正容の嫡子・久千代(正邦)や有栖川宮正仁親王と婚約するも両者は結婚前に没してしまう。8代将軍・吉宗は継室にと望んだが仮にも大叔母にあたるため、沙汰止みとなったという。代わりに吉宗は竹姫を自身の養女として新たな嫁ぎ先を探すものの、過去に立て続けて2度も婚約者が没しているともなれば不吉な噂も立ち、さらに一説には竹姫と吉宗は恋愛関係にあったともいわれ、婚家探しは難航した。
 享保14年(1729年)になってようやく薩摩藩主・島津継豊との縁組がまとまった。しかし、財政難の薩摩藩にとってはこの縁組みは災難以外の何物でもなかった。加えて継豊は病弱である上に長男益之助が誕生したばかりであった。そのため薩摩藩は、竹姫との間に今後男子が生まれても世子としない等の承服不可能と思える多くの条件を出し、それらすべてを幕府が了承したことで、ようやく結婚に至ったという。結婚当時は夫・継豊は異例の厚遇を受けた。しかし、後に隠居した継豊が鹿児島に帰国したのに対し竹姫は江戸に留まり、その10年後に継豊が鹿児島で没するまで再会することなく別居生活を送った。嫡母として宗信の養育や義理の孫に当たる島津重豪の養育に携わり、その後の薩摩藩政にも大きな影響を及ぼしたとされる。

 享保2年(1717年)8月1日出生。生母は斉藤氏。同6年(1721年)に疱瘡、同15年(1730年)に麻疹を患う。
 享保18年(1735年)より仙台藩主伊達吉村の嗣子である伊達宗村との縁談が進められ、徳川吉宗の養女となって将軍家に入ったのち、婚礼を挙げる。婚約の正式発表とともに、徳川将軍家の娘を正室に迎える慣例により同年、愛宕下の江戸藩邸中屋敷の一角に幕府指導の下、御守殿が造営される。また仙台領内での「とね」と称する女性名の禁止及び利根姫の敬称を将軍養女である点を考慮して「姫君様」と呼ぶよう通達された。また、利根姫の年間経費を6000両と決定された。
 元文2年(1737年)閏11月15日に温子と改名。元文4年(1739年)に源姫を出産。源姫は後に佐賀藩主鍋島重茂の正室となる。
 寛保3年(1743年)に夫の宗村が吉村の隠居を受けて仙台藩主を相続すると、芝口の江戸藩邸上屋敷奥方が中屋敷の御守殿に準じて改築され、延享2年(1745年)に温子は上屋敷に移る。同年12月3日に二番目の女児を出産するが夭折し、本人も同年閏12月16日に死去。墓所は大年寺。

徳川家治 徳川家基

 江戸城西ノ丸に生まれる。幼名は竹千代。幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。寛保元年(1741年)8月、元服して権大納言に叙任する。宝暦4年(1754年)12月に閑院宮直仁親王の娘・倫子女王と結婚した。
 宝暦10年(1760年)5月3日、父の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、正二位・内大臣に昇叙する。そして父・家重の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死去すると次第に幕政を老中に任命した田沼意次に任せ、自らは好きな将棋などの趣味に没頭することが多くなった。
 田沼意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する。安永8年(1779年)、家治の世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を自分の養子とした。
 天明6年(1786年)8月25日に死去。享年50。死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されている。
 家治死後1ヶ月足らずで反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。また、意次の薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。この真犯人は側室のお知保の方で田沼を失脚させた後、家治を田沼の報復として殺害したと見られる。墓所は東京都台東区上野の寛永寺。

 家治と田沼意次の推薦で側室となったお知保の方との間に生まれたが、大奥女中の広橋の願いもあり、男子のいなかった家治の正室・倫子の養子となって成長した。
 幼年期より聡明で文武両道の才能を見せる。成長により政治にも関心を持ち参画する姿勢を表し、老中田沼意次の政治を批判している。
 しかし、安永8年(1779年)、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で突然体の不調を訴え、三日後に死去。享年18(満16歳没)。その突然の死は、家基の将軍就任によって失脚する事を恐れた意次による毒殺説、嫡子・豊千代に将軍家を継がせたい一橋家・徳川治済による毒殺説など多くの暗殺説を生んだ。一方で幕末に来日したドイツの博物学者シーボルトは、家基がオランダから輸入したペルシャ馬に騎乗中、落馬事故を起こして死亡したと記述している。父・家治は、自らの後継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだという。家基の死により、家治の子で存命の者はなくなり、家治はそれ以後、死去するまで子を儲けることはなかったため、家治の血筋は断絶することとなった。
 家基に代わって第11代将軍となった家斉は、晩年になっても家基の命日には自ら墓所に参詣するか、若年寄を代参させていた。血縁関係の遠い先代将軍の子供にここまで敬意を払うのは異例である。
 徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の一文字を賜りながら早世したため、「幻の第11代将軍」とも言われる。