徳川家

TG04:徳川吉宗  徳川家康 ― 徳川秀忠 ― 徳川家光 ― 徳川吉宗 ― 徳川宗武 TG08:徳川宗武

リンク
徳川宗武 徳川治察

 江戸時代の御三卿・田安家の初代当主であり、田安宗武とも呼ばれる。徳川吉宗が和歌山藩主時代の時に生まれた次男で、幼少より聡明で、荷田在満や賀茂真淵に国学,歌学,万葉を学ぶ。

 異母兄・家重に代わり宗武を将軍後継者に推す者もあり、父・吉宗も一時は後継者にと考えたが、第3代将軍家光・駿河大納言忠長以来の長幼の序を重視し、家重を後継者とした。また、家重の嫡男・家治が聡明であったので、家治の将来に期待して家重を後継者にしたとも言われている。将軍後継者問題はその後も尾を曳き、家重が将軍となった後、3年間登城停止処分を受ける。弟の宗尹も同罪とみなされ不興を被った。次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免された。その後、第7代将軍家継の生母・月光院の斡旋により登城を赦され、表向きは和解したものの、以後、宗武は生涯にわたり家重と対面することはなかった。
 また、宗武自身も将軍就任を望んでいたため、家重の欠点を列挙して諌奏した。そのためかえって大御所となっていた父の吉宗に咎められ、延享4年(1747年)から3年間も謹慎の沙汰を受けた。また吉宗は、自分に反抗した徳川宗春に代えて尾張藩を継がせる所存であったが、尾張藩の抵抗により断念したと伝えられる。
 明和8年(1771年)6月4日に死去。享年57。田安徳川家は5男の治察が継いだ。

 明和8年(1771年)父の死により家督を継ぐが、安永3年(1774年)8月28日、田安邸において死去。妻子ともにいなかった。ただし、当時田安邸には陸奥白河藩主・松平定邦と養子縁組が整ったばかりの実弟・定信が暮らしていた。そのため、同年9月1日、母宝蓮院は、大奥の老女・高岳に松平定信による田安家相続の希望を伝えた。しかし、同年9月7日、側衆・稲葉正明から御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向、すなわち御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められないことを伝えられた。なお、治察の死亡は同年9月8日に公表された。その後、天明7年(1787年)に徳川治済の5男・斉匡が相続するまでの14年間、田安家は無当主の状態に置かれた。
徳川斉匡 徳川慶頼

 安永8年(1779年)4月19日生まれる。天明7年(1787年)6月13日、第2代当主徳川治察の死亡以来長く「明屋敷」となっていた田安徳川家の屋敷と領地を相続した。これに対し、御三家の徳川宗睦や徳川治保は強く反発した。御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向に背き、将軍の庶子ではなく御三卿の庶子が相続したからである。老中・松平定信は、徳川宗武夫人・宝蓮院の遺志であるなどとして説得した。
 文化10年(1813年)12月25日、第11代将軍・徳川家斉の子の徳川斉荘を養子に迎える。斉匡は子に恵まれ、正室裕宮貞子の子で嫡子であった徳川匡時のほか、5代当主となる徳川慶頼(側室篠﨑氏の子)、徳川斉位,徳川慶壽,松平慶永,徳川慶臧など数多くの子女がいたが、天保7年(1836年)8月に匡時が病弱であることを理由として幕命により廃嫡となり、斉匡は隠居させられた。第4代当主となったのは養子の斉荘で、斉荘が尾張藩主に転出した後、実子の慶頼が5代当主に就任し、斉匡がその後見に当たることとなった。嘉永元年(1848年)6月8日、死去。享年70(満69歳没)。

 父・徳川斉匡が11代将軍・徳川家斉(斉匡の実兄)の11男・斉荘を養子に迎えたため、天保7年(1836年)8月に隠居して斉荘に家督を譲った。しかし、3年後の天保10年(1839年)3月26日、斉荘が幕命により尾張徳川家の家督を相続したため、同年4月、慶頼が田安家を相続した。
 13代将軍・徳川家定の継嗣をめぐる問題では、南紀派として井伊直弼と提携していたが、安政5年(1858年)8月、家定の遺命を理由として新将軍・徳川家茂を擁立し、将軍後見職に就任した。ただし、実権はなく、一橋派であった実兄・春嶽は明治期に「慶頼は一身の働をなすことあたはず、井伊掃部頭の奴隷と見做して可なり」と回顧している。
 文久2年(1862年)5月9日、将軍後見職を解任された。文久3年(1863年)1月18日、隠居して長男・寿千代へ家督を譲ったが、2年後に寿千代は6歳で夭折し、家督は慶頼の3男・亀之助(家達)が継承した。
 慶応4年(1868年)には、寛永寺に謹慎した前将軍の慶喜に代わって徳川家をまとめ、静寛院宮(和宮)と協力して朝廷との折衝に当たり、江戸城無血開城に尽力した。その後も江戸鎮撫取締に任じ、努めて新政府に協力した。同年閏4月、明治新政府は亀之助に徳川宗家の家督相続を許可し、慶頼は田安家当主を再度務めることになる。5月24日、御三卿の一橋家当主・徳川茂栄らとともに立藩し諸侯に加えられる(田安藩)。それに伴って、戊辰戦争の際に明治新政府に没収されていた上方の所領の返還を求め、受け入れられた。
 明治2年(1869年)3月、版籍奉還を願い、同年12月に認められて、田安藩はそのまま廃藩となる。通常なら就任できたであろう知藩事に就任できなかったことは、慶頼にとって不満であり、同年8月には知藩事就任の嘆願書を提出している。その後も知藩事就任を訴えたものの認められず、明治3年(1870年)6月、田安藩は完全に解体された。同年から明治4年(1871年)にかけては、北海道十勝の開拓に当たった。
 明治9年(1876年)9月21日、東京にて死去した。享年49(満47歳没)。墓所は東叡山寛永寺。

徳川達孝

 明治2年(1869年)4月5日、嫡子となる。明治9年(1876年)11月13日、父慶頼の死去により家督を相続する。同年11月28日、元服する。明治17年(1884年)7月7日、伯爵となる。明治22年(1889年)、ヨーロッパ視察を行う。明治30年(1897年)7月、貴族院議員となる。大正3年(1914年)6月、退任する。
  大正4年(1915年)3月23日、皇后宮大夫に就任する。大正5年(1916年)6月22日、退任する。大正11年(1922年)3月22日、大正天皇の侍従長に就任する。昭和2年(1927年)3月3日、退任する。その他、学習院評議員・日本弘道会長を務める。
 十五銀行の倒産以来、経済的に逼迫し、三田の屋敷を売却し、実兄家達の邸宅の別棟に暮らすようになった。なお、家扶の不正も原因の一つであった。昭和12年(1937年)頃から徳川義親に家産の整理を相談し、債務の返済には成功したようである。その一環として、昭和13年(1938年)4月、屏風などの家宝の売りたてを行っている。昭和16年(1941年)没、77歳。