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徳川宗武 | 徳川治察 |
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江戸時代の御三卿・田安家の初代当主であり、田安宗武とも呼ばれる。徳川吉宗が和歌山藩主時代の時に生まれた次男で、幼少より聡明で、荷田在満や賀茂真淵に国学,歌学,万葉を学ぶ。 異母兄・家重に代わり宗武を将軍後継者に推す者もあり、父・吉宗も一時は後継者にと考えたが、第3代将軍家光・駿河大納言忠長以来の長幼の序を重視し、家重を後継者とした。また、家重の嫡男・家治が聡明であったので、家治の将来に期待して家重を後継者にしたとも言われている。将軍後継者問題はその後も尾を曳き、家重が将軍となった後、3年間登城停止処分を受ける。弟の宗尹も同罪とみなされ不興を被った。次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免された。その後、第7代将軍家継の生母・月光院の斡旋により登城を赦され、表向きは和解したものの、以後、宗武は生涯にわたり家重と対面することはなかった。 |
明和8年(1771年)父の死により家督を継ぐが、安永3年(1774年)8月28日、田安邸において死去。妻子ともにいなかった。ただし、当時田安邸には陸奥白河藩主・松平定邦と養子縁組が整ったばかりの実弟・定信が暮らしていた。そのため、同年9月1日、母宝蓮院は、大奥の老女・高岳に松平定信による田安家相続の希望を伝えた。しかし、同年9月7日、側衆・稲葉正明から御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向、すなわち御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められないことを伝えられた。なお、治察の死亡は同年9月8日に公表された。その後、天明7年(1787年)に徳川治済の5男・斉匡が相続するまでの14年間、田安家は無当主の状態に置かれた。 |
徳川斉匡 | 徳川慶頼 |
安永8年(1779年)4月19日生まれる。天明7年(1787年)6月13日、第2代当主徳川治察の死亡以来長く「明屋敷」となっていた田安徳川家の屋敷と領地を相続した。これに対し、御三家の徳川宗睦や徳川治保は強く反発した。御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向に背き、将軍の庶子ではなく御三卿の庶子が相続したからである。老中・松平定信は、徳川宗武夫人・宝蓮院の遺志であるなどとして説得した。 |
父・徳川斉匡が11代将軍・徳川家斉(斉匡の実兄)の11男・斉荘を養子に迎えたため、天保7年(1836年)8月に隠居して斉荘に家督を譲った。しかし、3年後の天保10年(1839年)3月26日、斉荘が幕命により尾張徳川家の家督を相続したため、同年4月、慶頼が田安家を相続した。 |
徳川達孝 | |
明治2年(1869年)4月5日、嫡子となる。明治9年(1876年)11月13日、父慶頼の死去により家督を相続する。同年11月28日、元服する。明治17年(1884年)7月7日、伯爵となる。明治22年(1889年)、ヨーロッパ視察を行う。明治30年(1897年)7月、貴族院議員となる。大正3年(1914年)6月、退任する。 |