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徳川宗尹 | 徳川治済 |
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第8代征夷大将軍・徳川吉宗の4男で一橋家の初代当主。一橋宗尹とも名乗った。 享保20年(1735年)、3万俵を賜り別家して一橋徳川家を創設した。順次加増され、延享3年(1746年)には10万石となった。明和元年(1764年)、44歳で死去した。 |
一橋徳川家2代当主。第11代将軍・徳川家斉の実父として権勢を誇り、幕政に隠然たる影響力を持った。兄の松平重昌と松平重富が越前福井藩を継いだため、宝暦8年(1758年)に嫡子となる。明和元年(1764年)、父・宗尹の死により一橋家を継承する。弟の治之は福岡藩主黒田継高の婿継嗣となった。 |
徳川斉敦 | 徳川斉礼 |
寛政5年(1793年)4月8日に一橋家の世子だった兄・徳川治国が死去したため、同年6月6日に代わって世子となる。同日に元服し、兄の第11代将軍・徳川家斉から偏諱を受けて斉敦と名乗り、従三位・左近衛権中将兼民部卿に叙任される。 |
文化元年(1804年)9月28日、一橋家の世子となる。文化11年(1814年)2月19日に元服し、伯父にあたる将軍・徳川家斉から偏諱を受けて斉礼と名乗り、兵部卿に任じられる。 |
徳川斉位 | 徳川慶昌 |
文政8年(1825年)2月6日に一橋家当主・徳川斉礼の養子となり、翌7日に豊之助と改名。文政10年(1827年)6月25日に元服し、将軍徳川家斉から偏諱を受けて斉位と名乗り、従三位左近衛権中将兼民部卿に叙される。 |
天保3年(1832年)、祖父で第11代将軍・家斉の正室・広大院が市田義宜(広大院の甥で薩摩藩家老)を通じて藩主・島津斉興に、嫡子・斉彬の養子に初之丞を入れるよう持ちかけたことがあった。しかし義宜と斉興が広大院に対し断りを入れたためこれは実現しなかった。 |
徳川茂栄 | 徳川宗敬 |
高須藩第11代藩主、尾張藩第15代藩主、一橋徳川家第10代当主。嘉永2年8月16日、父・義建の嫡子となる。同年11月1日、将軍徳川家定に御目見する。同年12月16日、従五位下弾正大弼に叙任、従四位下侍従に昇進する。後に摂津守に改める。嘉永3年(1850年)10月16日、父の隠居により高須藩第11代藩主に就任し、松平義比を名乗る。同年12月16日、左近衛権少将に任官する。 |
日本の林学者,陸軍軍人,政治家,教育者,神職。階級は陸軍少尉。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
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