徳川家

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徳川宗尹 徳川治済

 第8代征夷大将軍・徳川吉宗の4男で一橋家の初代当主。一橋宗尹とも名乗った。

 享保20年(1735年)、3万俵を賜り別家して一橋徳川家を創設した。順次加増され、延享3年(1746年)には10万石となった。明和元年(1764年)、44歳で死去した。
 多趣味であり武芸を好み、中でも鷹狩りは割り当てられた回数では不足したため、兄の徳川宗武より割り当て枠を譲ってもらうほどであった。福岡藩黒田家の菩提寺・渋谷村広尾の祥雲寺に鷹狩りの際、立ち寄った記録が多数残る。陶芸や染色もたしなみ、染手拭いを家臣に与えたり、手作りの菓子を父の徳川吉宗や兄の徳川家重に献上した。

 一橋徳川家2代当主。第11代将軍・徳川家斉の実父として権勢を誇り、幕政に隠然たる影響力を持った。兄の松平重昌と松平重富が越前福井藩を継いだため、宝暦8年(1758年)に嫡子となる。明和元年(1764年)、父・宗尹の死により一橋家を継承する。弟の治之は福岡藩主黒田継高の婿継嗣となった。
 田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟・意誠や甥・意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は松平定信ら反田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍・徳川家治が亡くなり長男の豊千代改め家斉が11代目の将軍職に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。
 天明8年(1788年)に家斉は治済を大御所待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で光格天皇が実父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしてこれに反対した老中の松平定信と対立する尊号一件が発生していた。その結果、治済の「大御所」待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚した。
 寛政11年(1799年)に一橋家の家督を6男・斉敦へ譲って隠居し、幕府から5万石の賄料と5千両の年金を別に受ける。文政元年(1818年)には剃髪して「穆翁」と号す。のち従一位准大臣まで昇進し、文政10年(1827年)に77歳で死去。

徳川斉敦 徳川斉礼

 寛政5年(1793年)4月8日に一橋家の世子だった兄・徳川治国が死去したため、同年6月6日に代わって世子となる。同日に元服し、兄の第11代将軍・徳川家斉から偏諱を受けて斉敦と名乗り、従三位・左近衛権中将兼民部卿に叙任される。
 寛政10年(1798年)11月23日に左大臣二条治孝の娘・保子と婚姻。寛政11年(1799年)1月27日に一橋家の当主に就任。文化5年(1808年)12月1日に参議に任じられた。
 文化13年(1816年)9月4日に死去。享年37。文政5年(1822年)8月9日に権中納言が追贈された。跡を次男・斉礼が継いだ。

 文化元年(1804年)9月28日、一橋家の世子となる。文化11年(1814年)2月19日に元服し、伯父にあたる将軍・徳川家斉から偏諱を受けて斉礼と名乗り、兵部卿に任じられる。
 文化12年(1815年)8月5日に従三位左近衛権中将に叙され、文化13年(1816年)9月4日に父・斉敦が没したため同年10月4日に当主に就任する。文政2年(1819年)4月6日に田安徳川家当主・徳川斉匡の娘・近姫と婚姻。
 文政6年(1823年)7月8日に遠江国1万石を幕府に返納し、代わりに摂津国1万石を賜る。文政10年(1827年)2月18日には遠江国,武蔵国,下野国三国の3万石を幕府に返納し、代わりに摂津国,越後国,備中国三国の3万石を賜る。同年閏6月1日に参議に就任。
 文政13年(1830年)6月14日、28歳で死去。天保7年(1836年)6月2日に権中納言が追贈された。

徳川斉位 徳川慶昌

 文政8年(1825年)2月6日に一橋家当主・徳川斉礼の養子となり、翌7日に豊之助と改名。文政10年(1827年)6月25日に元服し、将軍徳川家斉から偏諱を受けて斉位と名乗り、従三位左近衛権中将兼民部卿に叙される。
 文政13年(1830年)6月14日に養父・斉礼が没したため同年7月19日に当主に就任する。天保6年(1835年)11月15日、将軍徳川家斉の27女・永姫(徳川家慶の妹)と婚姻。同年12月1日には参議に任ぜられた。
 しかし天保8年(1837年)5月7日、わずか20歳で若死にした。天保14年(1843年)4月2日には権中納言が追贈された。
 嗣子が無かったため、義兄である徳川家慶の5男・徳川慶昌を末期養子として跡を継がせた。

 天保3年(1832年)、祖父で第11代将軍・家斉の正室・広大院が市田義宜(広大院の甥で薩摩藩家老)を通じて藩主・島津斉興に、嫡子・斉彬の養子に初之丞を入れるよう持ちかけたことがあった。しかし義宜と斉興が広大院に対し断りを入れたためこれは実現しなかった。
 天保8年(1837年)5月4日に一橋家当主・徳川斉位の末期養子となり、同年6月6日に当主に就任。同年8月19日に元服し、父・家慶から偏諱を受けて慶昌と名乗り、従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙された。
 しかし翌天保9年(1838年)5月14日、当主就任から1年を迎える前に14歳で夭折。天保15年(1844年)5月4日に参議が追贈された。嗣子は無かったため、田安徳川家当主・徳川斉匡の5男・徳川慶壽が養子となって跡を継いだ。
 なお、幼き日の勝海舟が慶昌の遊び相手に取り立てられている。

徳川茂栄 徳川宗敬

 高須藩第11代藩主、尾張藩第15代藩主、一橋徳川家第10代当主。嘉永2年8月16日、父・義建の嫡子となる。同年11月1日、将軍徳川家定に御目見する。同年12月16日、従五位下弾正大弼に叙任、従四位下侍従に昇進する。後に摂津守に改める。嘉永3年(1850年)10月16日、父の隠居により高須藩第11代藩主に就任し、松平義比を名乗る。同年12月16日、左近衛権少将に任官する。
 安政5年(1858年)7月5日、安政の大獄により、尾張藩主であった異母兄・慶勝が隠居謹慎となったため、尾張藩主に就任し、徳川茂徳を名乗る。同年10月13日、従三位参議・左中将に昇進する。後に従二位大納言に昇進する。就任時の経緯から藩内の支持は佐幕派に限られた。慶勝の謹慎が解けると藩内の流れが変わった。そのため、高須藩主へ復帰する意向も漏らしている。結局、文久3年(1863年)9月13日、隠居し、養子義宜に藩主を譲った。隠居後は玄同と号した。
 慶応2年(1866年)12月27日、徳川宗家を相続した徳川慶喜を継いで一橋家当主に就任し、徳川茂栄を名乗る。幕府は、実兄・慶勝の願いをうけて、茂栄の一橋家相続を認めている。なお、当初は清水家相続の予定であった。明治維新に際しては、徳川一族の総代的な役割を担い、明治新政府との交渉にあたる。東征大総督・有栖川宮熾仁親王に前将軍・慶喜の寛大な処分を願い、慶応4年(1868年)3月29日、了承される。同年閏4月27日、徳川宗家の扱いの早急な処理を願い、閏4月29日、徳川家達による宗家相続を命じられる。同年5月10日、早急な徳川宗家の領地決定を願い、5月24日、家達は駿府70万石を与えられる。
 明治元年(1868年)5月24日、一族の徳川慶頼らとともに諸侯に列し立藩する。明治2年3月、版籍奉還を出願する。同年9月、知藩事就任を願っている。同年12月27日、版籍奉還は認められて廃藩となり、知藩事にはなれなかった。明治3年6月、家臣らに別離の挨拶を行い、一橋藩は完全に解体した。明治17年(1884年)3月、数え54歳で没。
 会津藩主・松平容保、伊勢桑名藩主・松平定敬も兄弟であり、慶勝と合わせて高須四兄弟と称されるが、他の3人のように藩政,外交に主体的に取り組んだ形跡が薄く、時代の情勢に押し流され続けた生涯といえる。恵まれた境遇とは言いがたいが、息子の達道は無事一橋家を相続し、自らの系統を残すことができた。

 日本の林学者,陸軍軍人,政治家,教育者,神職。階級は陸軍少尉。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
 1916年(大正5年)に一橋徳川家第11代当主・達道の養子となり、名を宗敬と改める。1926年(大正15年)にドイツ・ベルリン留学。1928年(昭和3年)に帰国し、1934年(昭和9年)に家督相続し伯爵を襲爵した。1939年(昭和14年)7月10日には伯子男爵議員互選選挙で貴族院議員に当選する。
 1941年(昭和16年)、東京帝国大学に学位論文「江戸時代に於ける造林技術の史的研究」を提出、農学博士(東京帝国大学)の学位を取得。1946年(昭和21年)、日本博物館協会第3代会長に就任。1947年(昭和22年)、第1回参院選全国区に無所属で立候補し上位当選。保守系の院内会派・緑風会に所属し、緑風会議員総会議長となった。1951年(昭和26年)、緑風会議員総会議長としてサンフランシスコ平和条約の全権委員に就任し、同条約の調印に参与。同年、参議院皇室経済法特別重点会委員長などを務めるなど、主に農林水産関係、図書館、議院運営に尽くした。
 1966年(昭和41年)7月、神宮大宮司及び神社本庁顧問に就任し、第60回式年遷宮に向けて尽力した。1976年(昭和51年)に神宮大宮司を退任した後は神社本庁統理を務めるなど、神社界にも貢献している。
 1989年(平成元年)5月1日、膵臓癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。91歳没。
 緑化運動に終生尽力し、「緑化の父」と称された。戦前は帝国森林会会長を務め、戦後は「荒れた国土に緑の晴れ着を」を合言葉に1947年(昭和22年)に森林愛護連盟を結成し、1950年(昭和25年)に設立された社団法人国土緑化推進委員会では理事長として毎年春に開催される全国植樹祭を支えた。宗敬の死後、一橋徳川家所有の樹林地は文京区に寄付されて「千石緑地」として開放されている。