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徳川慶喜 | 徳川 厚 |
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水戸藩主・徳川斉昭の7男として誕生。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職および禁裏御守衛総督などを務める。徳川宗家を相続し将軍職に就任した。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。
詳細は、Wikipedia徳川慶喜 参照
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慶喜の事実上の長男(兄はすべて夭折していたため)として明治15年(1882年)に9歳で分家。明治17年(1884年)の華族令に伴って男爵に叙せられる。学習院卒。貴族院議員や東明火災保険(後に東京海上火災に合併)取締役を務める。文学を好み龍山と号した。また、天理教徒でもあった。昭和2年(1927年)5月、隠居し長男・喜翰に家督を譲った。墓所は東京都台東区上野の寛永寺。 |
徳川慶久 | 徳川慶光 |
徳川慶喜の7男として静岡県静岡市紺屋町の屋敷で生まれる。母は側室の新村信。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年(明治35年)6月6日に慶久と改名している。 |
1922年(大正11年)に父が急死したため、10歳で襲爵。伯父の侯爵・池田仲博が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。1938年(昭和13年)10月5日には、会津松平家の子爵・松平保男の4女・和子と結婚している。 |
徳川家達 | 徳川家正 |
徳川宗家第16代当主。もとは御三卿の田安徳川家第7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助。 |
爵位は公爵。東京帝国大学法科大学政治科卒業。その他の主な公職及び役職としては、社団法人全国治水砂防協会会長,日土協会会長などを歴任。 |
徳川恒孝 | 徳川家広 |
学習院大学政経学部政治学科卒業。元日本郵船副社長。公益財団法人徳川記念財団初代理事長。WWFジャパン代表理事。公益社団法人東京慈恵会会長。公益財団法人斯文会名誉会長。一般社団法人横浜港振興協会元会長。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師。公益財団法人日本美術刀剣保存協会名誉顧問。 |
徳川宗家第19代当主。公益財団法人徳川記念財団理事長、長崎大学国際連携研究戦略本部客員教授、特定非営利活動法人公共政策調査機構顧問。 |