徳川家

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徳川慶喜 徳川 厚

 水戸藩主・徳川斉昭の7男として誕生。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職および禁裏御守衛総督などを務める。徳川宗家を相続し将軍職に就任した。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。
 江戸幕府及び日本史上最後の征夷大将軍であり、在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。
 明治43年(1910年)12月8日、7男・慶久に家督と爵位を譲って隠居。公爵でなくなったため同月9日、貴族院議員の職を失職した。また、これに合わせて慶喜公爵家の家範を制定した。
 慶喜は大正元年(1912年)にダイムラーの自動車を入手した。威仁親王がヨーロッパ旅行土産に慶喜に贈ったものといわれる。明治44年の段階では東京で自動車を個人所有している者はまだ150余人に過ぎなかったといわれるので慶喜はかなり早い段階で自家用車を入手した人物という。
 辛亥革命による清朝崩壊・中華民国成立やタイタニック号沈没事故(1912年)の時にもなお存命で、年下の明治天皇より長生きして大正時代の到来を見届け、大正2年(1913年)11月22日、急性肺炎を併発した感冒のために薨去した。享年77(満76歳25日)。

 

詳細は、Wikipedia徳川慶喜 参照 

 

 慶喜の事実上の長男(兄はすべて夭折していたため)として明治15年(1882年)に9歳で分家。明治17年(1884年)の華族令に伴って男爵に叙せられる。学習院卒。貴族院議員や東明火災保険(後に東京海上火災に合併)取締役を務める。文学を好み龍山と号した。また、天理教徒でもあった。昭和2年(1927年)5月、隠居し長男・喜翰に家督を譲った。墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
徳川慶久 徳川慶光

 徳川慶喜の7男として静岡県静岡市紺屋町の屋敷で生まれる。母は側室の新村信。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年(明治35年)6月6日に慶久と改名している。
 1908年(明治41年)11月8日、有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子と結婚。實枝子は有栖川宮最後の王女であり、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚したのもそのためである。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年12月1日に貴族院議員となる。
 1922年(大正11年)1月22日10時35分、東京府東京市小石川区第六天町54番地の本邸で急死。死因は脳溢血とされたが、一部には自殺説も取り沙汰された。元華族の松平幸子(仮名)の証言によると、「眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だった」という。没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈される。
 柔道二段、碁も素人二段、そのほか撞球,鉄砲,乗馬,ゴルフ,油絵など何をやっても抜きん出ており、頭脳明晰で性格円満だったという。親友の侯爵・細川護立からは、「才気縦横、故慶喜公の好いところを総て受け継いで居た」と評された。ゆくゆくは内閣総理大臣にという声もあがったことがある。 中々の二枚目でもあり、華族の子女から憧れの目で見られた。孫の徳川慶朝は著書で「映画俳優にしてもおかしくないくらい」と評している。

 1922年(大正11年)に父が急死したため、10歳で襲爵。伯父の侯爵・池田仲博が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。1938年(昭和13年)10月5日には、会津松平家の子爵・松平保男の4女・和子と結婚している。
 1940年(昭和15年)1月に召集され、二等兵として入隊。しかし内地で肺炎にかかって陸軍病院に入院、退院と同時に除隊。1941年(昭和16年)7月、再び召集されるも徴兵検査で即日帰郷となる。1944年(昭和19年)2月、3度目の召集で二等兵として歩兵第101連隊東部62部隊に入隊。中国大陸を転戦したが、行く先々で入退院を繰り返していた。長沙の野戦病院では赤痢とマラリアに栄養失調も加わり、生死の境をさまよった。終戦は上等兵として北京で迎え、1945年(昭和20年)12月に復員。
 復員後は空襲による類焼を免れていた第六天町の自邸に居住したが、1947年(昭和22年)に華族制度の廃止に伴って爵位と貴族院議員の議席を失った上、財産税の支払いのために自邸を物納した。このため妻や娘を伴って静岡県に移り、西園寺公望の別荘・坐漁荘に暮らした。東海大学の附属高校で漢文の講師を務めるが、その後は様々な事業を起こすも失敗、東洋製罐研究所勤務などの職を転々とする。やがて東京都港区高輪の借家に移り、1972年(昭和47年)9月には東京都町田市の60坪の建売住宅に転居。
 晩年は料理や野菜作りなど趣味に没頭して生きる一方、愛人との不倫同棲事件で和製ウィンザー公と報じられたこともあった。1993年(平成5年)2月6日、パーキンソン病のため東京都町田市の自宅で死去。80歳没。

徳川家達 徳川家正

 徳川宗家第16代当主。もとは御三卿の田安徳川家第7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助。
 大政奉還,王政復古,江戸開城を経て、1868年(慶応4年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の元津山藩主・松平斉民らが後見役を命ぜられた。当時、数え年で6歳だった。5月18日に亀之助を改め、家達と名乗ることになった。世間からは「十六代様」と呼ばれた。5月24日、駿府藩主として70万石を与えられる。領地は当初駿河国一円と遠江国・陸奥国の一部であったが、9月4日に陸奥国に代えて三河国の一部に変更された。
 8月9日に中老・大久保一翁、大目付・加藤弘蔵など約100人を共にした行列を連れて江戸を出発し、徳川家所縁の地である駿河府中へ向かった。家達が駿府に到着したのは10月5日だったが、11月には旧江戸城の東京城(皇居)に戻り、明治天皇に拝謁した。1869年(明治2年)4月13日に旧榊原家邸を藩邸として与えられた。7月14日に東京を発って駿府への帰路につく。この留守中の6月に駿府は静岡と改称。また版籍奉還に伴い、1869年(明治2年)6月、静岡藩知藩事に就任し、同時に華族に列する。
 1877年(明治10年)英国に留学。以降5年にわたって英国に滞在することになる。英国貴族や上流階級の子弟が学ぶパブリックスクールのイートン・カレッジに入学。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。
 19歳になっていた1882年(明治15年)10月に帰国。帰国間もない11月6日に近衛泰子と結婚。彼女との間に嫡男・家正をはじめとする1男33女を儲ける。
 1884年(明治17年)に華族令が制定されて華族が五爵制になり、家達は最上位の公爵に叙された。
 1890年(明治23年)の帝国議会開設と同時に貴族院議員に就任し、1903年(明治36年)から1933年(昭和8年)まで30年にわたり第4代から第8代までの貴族院議長を務めた。1914年(大正3年)には「徳川内閣」の話もあったが、実現はしなかった。
 またワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピック組織委員会委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。
 1938年(昭和13年)5月には第16回赤十字国際会議出席のために横浜から出港し、カナダ経由でロンドンへ向かったが、カナダ旅行中に発病して急遽帰国した。その後、千駄ヶ谷の徳川邸で日本赤十字社病院の青柳博士を主治医にして療養生活を送っていたが、1940年(昭和15年)6月5日午前0時4分、急性肺炎を併発して76歳で薨去。遺骸は第二霊廟境内の徳川家累代の墓に埋葬された。

 爵位は公爵。東京帝国大学法科大学政治科卒業。その他の主な公職及び役職としては、社団法人全国治水砂防協会会長,日土協会会長などを歴任。
 1925年(大正14年)シドニー領事、1929年(昭和4年)カナダ公使、1934年(昭和9年)トルコ大使となる。1937年(昭和12年)に外務省を退官。
 1940年(昭和15年)父・家達の薨去に伴い公爵を襲爵し、貴族院議員となる(火曜会所属)。1946年(昭和21年)に最後の貴族院議長に就任する。1963年(昭和38年)、逝去、叙位叙勲。正二位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を受章する。なお、逝去に伴い、貴族院の後身である参議院を代表し、参議院議長重宗雄三から最後の貴族院議長として憲政の発展に尽くした功績を称えられ弔詞が贈呈された。だが、長男・家英(1912年1月11日~1936年9月28日)は東北帝国大学在学中に妻子のないまま、24歳の若さで病死する。断絶の危機を恐れた家正は、長女・豊子と会津松平家の松平一郎夫妻の次男恒孝を養子にする。なお、恒孝の父方の祖父である松平恒雄は貴族院廃止に伴って家正が議長を退任した後に、その後を引き継ぐ形で初代の参議院議長に就任した人物である。

徳川恒孝 徳川家広

 学習院大学政経学部政治学科卒業。元日本郵船副社長。公益財団法人徳川記念財団初代理事長。WWFジャパン代表理事。公益社団法人東京慈恵会会長。公益財団法人斯文会名誉会長。一般社団法人横浜港振興協会元会長。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師。公益財団法人日本美術刀剣保存協会名誉顧問。
 1940年(昭和15年) 元御家門の会津松平家の一門に生まれる。徳川宗家に養子に入るまでの姓名は松平恒孝。1954年(昭和29年) 第17代当主・徳川家正(外祖父)の養子となり、徳川 恒孝に改名し、1963年(昭和38年) 家正の死去により家督を継ぎ、第18代当主となる。
 2003年(平成15年)には財団法人「徳川記念財団」を設立して理事長に就任。
 2023年(令和5年)1月1日、宗家当主の座を長男・家広に譲った。

 徳川宗家第19代当主。公益財団法人徳川記念財団理事長、長崎大学国際連携研究戦略本部客員教授、特定非営利活動法人公共政策調査機構顧問。
 東京都渋谷区に生まれ、小学1年生から3年生までをアメリカ・ニューヨークで過ごす。帰国後、学習院初等科,中等科,高等科で学び在学中は文芸部に所属していた。慶應義塾大学経済学部を卒業後、ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得。財団法人国際開発高等教育機構(FASID)、国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム支部(ハノイ)に勤務し、その後コロンビア大学大学院政治学研究科を修了し、政治学修士号を取得。
 1997年頃、FAOベトナム支部勤務時代に11歳下のベトナム人女性と知り合い、早々にこの女性との結婚を決意し、2001年に日本へ帰国。2006年頃、婚姻した。周囲の反対もあったと報道されたが、家広によれば、びっくりはされたが家族に会わせてみると「いい子だね」と祝福されたという。
 2012年10月、政策フォーラム「日本の選択」の設立に参加し、その座長となる。2018年10月に知人の北海道議会議員から要請を受け、任期満了に伴う北海道知事選挙への立候補の準備を始めるが、自らの理解が浅かったとして不出馬を表明した。2019年には、第25回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区から立憲民主党公認で立候補するも落選。
 2023年1月1日、家督を継承し、徳川宗家第19代当主となる。同年1月29日、代替わりの儀式として、増上寺で「継宗の儀」が行われた。