徳川家

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徳川家慶 徳川家定

 長兄である竹千代が早世したために将軍継嗣となり、天保8年(1837年)に45歳で将軍職を譲られたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。天保12年(1841年)、 家斉の死後、家慶は4男・家定を将軍継嗣に決定した。また老中首座・水野忠邦を重用し、家斉派を粛清して天保の改革を行わせた。忠邦は幕府財政再建に乗り出し、諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。また家慶政権期には言論統制も行われ、高野長英や渡辺崋山などの開明的な蘭学者を弾圧した(蛮社の獄)。
 天保14年(1843年)、幕府が江戸,大坂周辺の大名,旗本領の幕府直轄領編入を目的とした上知令を発令すると猛烈な反発を受けて、家慶の判断で翌年にその撤回を余儀なくされ忠邦は失脚して天保の改革は挫折する。
 その後、家慶は土井利位,阿部正弘,筒井政憲らに政治を委ね、お由羅騒動に介入して薩摩藩主・島津斉興を隠居させたり、水戸藩主・徳川斉昭に隠居謹慎を命じたりしている。また斉昭の7男・七郎磨(後の徳川慶喜)に一橋家を相続させている。
 オランダ国王ウィレム2世の開国勧告を謝絶し、阿部正弘の意見を容れて海防掛を常設させるなどしていた家慶だったが、嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に薨去。享年61。暑気当たりで倒れた(熱中症による心不全)ことが死の原因と言われている。

 

 父・家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け、家定は第13代将軍となった。
 嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、マシュー・ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は同年3月3日(3月31日)日米和親条約に調印した。家定は元々健康が優れなかったが、将軍就任以後はさらに悪化し、廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年6月17日(1857年8月6日)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導された。安政4年10月21日(1857年)に米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。
 家定は鷹司政煕の娘・任子(天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を御簾中に迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女・敬子(天璋院)を御台所に迎えるも実子は生まれなかった。このため、将軍在職中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した安政4年(1857年)頃からは、さらに激化する。後継者候補として、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。家定はこの間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日(1858年8月4日)、諸大名を招集して従弟である慶福を将軍継嗣にする意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であった。
 安政5年7月6日(1858年8月14日)、死去。享年35。

徳川家茂

 第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩主・井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。
 弘化3年(1846年)閏5月24日、徳川斉順の次男として江戸の和歌山藩邸で誕生した。16日前に斉順は死去している。嘉永2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を4歳で継いだ。幼少故に当初は隠居した元藩主・徳川治宝が補佐したが、その死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ付家老・水野忠央が実権を握り、伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする藩政改革派が弾圧された。和歌山藩主としての治世は9年2ヶ月であり、この間の和歌山帰国はなかった。
 安政5年(1858年)、一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために第14代将軍となった。慶福改め家茂はこの時13歳という若年であった。しかし、文久2年(1862年)までは田安慶頼が、その後は慶喜が将軍後見職に就いていたため、その権力は抑制されていた。また、この将軍宣下の際、それまでは新将軍が上座で天皇勅使が下座であったが、尊王の世情を反映して逆に改められた。
 文久2年(1862年)に和宮(親子)と結婚。和宮は熾仁親王と婚約していたが、幕府の公武合体構想からの要請により熾仁親王との婚約を破棄し家茂に降嫁した。文久3年(1863年)、将軍としては229年振りとなる上洛を行い、天皇や一橋慶喜らと共に賀茂神社に参拝したが、天皇が公式に御所を出たのも237年ぶりであった。
 文久4年(1864年)には軍艦・翔鶴丸で海路から二度目の上洛を果たした。将軍が海路上洛したのは、これが初めてである。京都では前年の八月十八日の政変で三条実美ら尊王攘夷派が朝廷から失脚しており、家茂は朝廷より歓迎されて従一位右大臣に昇進した。また家茂は薩摩の島津久光に初めて拝謁を許し、参与会議の諸侯に二条城の御用部屋利用を認めた。
 慶応2年(1866年)、第2次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れた。この知らせを聞いた天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院,多紀養春院(多紀安琢),遠田澄庵,高島祐庵,浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、同年7月20日に薨去した。享年21(満20歳没)。遺体はイギリスから8月に購入した長鯨丸にて江戸に運ばれ、9月6日に江戸に到着している。
 家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の宗家第16代当主・徳川家達)の指名を遺言としたが実現されず、徳川慶喜が第15代将軍となった。