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徳川秀忠 | 千姫 |
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天正7年4月7日(1579年5月2日)、徳川家康の3男として遠江国浜松に誕生する。母は西郷清員の養女・愛子(戸塚忠春の娘)。秀忠が誕生してから5ヶ月後に長兄・信康が切腹、次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、後に結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。
詳細はWikipedia(徳川秀忠)参照
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秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。 慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式[鬢削」を千姫にしていたのを侍女が目撃している。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘・奈阿姫(天秀尼)が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。奈阿姫は後に[縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となる。 元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。一説には大坂城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出したが、直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することになったという。直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が疑わしいとされている(実際には堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、というのが真相で、千姫を与えるではなく、嫁ぎ先を探すのを頼まれたのが真実らしい)。 元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の祟りだと言われた)、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。 寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には江戸城から移った3代将軍家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の3男・綱重と暮らすようになる。これにより大奥で大きな権力を持つようになったとされる。 寛文6年(1666年)、江戸で死去。享年70。亡くなった夜、於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、京都の知恩院にも分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祀るため伊勢に寂照寺を開いた。 穏和な性格の持ち主と伝えられ、祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。千姫が亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫(秀頼の娘とは別人)は祖母の菩提を弔うために[浄土三部経(全4巻)」を書き写した(茨城県常総市指定文化財)。千姫は祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられたという。また、弟の家光とも姉弟仲は良好だったらしい。 |
珠姫 | 勝姫 |
慶長6年(1601年)江戸から金沢に入り、わずか3歳で前田利常と結婚。慶長18年(1613年)長女・亀鶴姫(後に森忠広室)をはじめ3男5女を出産し、元和8年(1622年)5女・夏の出産後に体調を崩し、7月に病没。享年24歳。 |
慶長16年(1611年)、従兄弟の越前国福井藩主の松平忠直と結婚。元和元年(1615年)に光長、元和3年(1617年)に亀姫、元和4年(1618年)に鶴姫を生む。
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初姫 | 徳川忠長 |
慶長11年(1606年)7月に若狭国小浜藩主の京極忠高の許へ嫁ぐ。忠高の父・京極高次の正室・初(常高院)には実子がなかったため、初の実妹で秀忠継室の江の生んだ姪に当たる初姫を養女とし忠高と娶わせる事で、徳川家と姻戚関係を結ぶと共に、京極家での初の立場をも安泰なものにするという、一石二鳥の政略だったと思われる。ただし夫婦仲は悪かったらしく、二人の間に子供はいなかった。 |
父の秀忠や母の江は、病弱で吃音であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国松を寵愛していたとされ、それらに起因する竹千代擁立派と国松擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったとされる。この争いはのち、春日局による家康への直訴(異説あり)により竹千代派の勝利に終わった。誕生日が不定であることから、秀忠の実子ではなく、懐妊当時、江戸城普請に従事していた藤堂家の家臣・藤堂賢政(一説には浅井氏の出)と江の間に生まれたという説もある。 |
和子 | 完子 |
慶長17年(1612年)には後水尾天皇が即位するが、大御所・家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。 |
豊臣(羽柴)秀勝の娘で、九条幸家の正室。従三位。 |