徳川家

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徳川秀忠 千姫

 天正7年4月7日(1579年5月2日)、徳川家康の3男として遠江国浜松に誕生する。母は西郷清員の養女・愛子(戸塚忠春の娘)。秀忠が誕生してから5ヶ月後に長兄・信康が切腹、次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、後に結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、当初は上杉の備えとして宇都宮に在陣し、その後に中山道を通り甲信地方の真田氏を平定する別働隊の指揮を命じられた。信濃国上田城攻め最中の9月8日に家康から即時上洛を命じられ行軍を急いだが、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦には間に合うはずもなかった。9月20日に大津に到着した秀忠に対して家康は、本戦への遅参ではなく急な行軍で軍を疲弊させたことを叱責した。
 慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に任命された。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。
 2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となる。将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当した。
 大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請している。家康が秀忠の要請を容れず、自身がまず上洛して情勢を確認し、問題がなければ処置をして帰国するが、もし豊臣方が籠城等を行うなら秀忠の名で攻め滅ぼすので兵を派遣して欲しいと求めたのに対して、使者の利勝はその際は秀忠が兵を率いて上洛すると提案し、これが容れられている。
 豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。元和2年(1616年)1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰った。
 家康死後、家康のブレーンとして駿府政権を支えた本多正純,秋元泰朝,松平正綱,金地院崇伝,天海,林羅山らを江戸政権に合流する一方、親藩の付家老になったり、それまでの特権を失い一家臣や御用商人の立場に戻った者もいる。家康遺臣の一部を幕閣に合流させた秀忠は将軍親政を開始し、これまで江戸政権を支えた近臣である酒井忠世,土井利勝ら老中を幕府の中枢として、自らリーダーシップを発揮する。また駿府にいた家康旗本のため、江戸に駿河町が新たに整備された。
 元和9年(1623年)に上洛をして6月25日に参内すると、将軍職を嫡男・家光に譲る。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現・皇居)に移った。
 寛永8年(1631年)頃から体調を崩し、寛永9年1月24日(1632年3月14日)に薨去。享年54(満52歳没)。

 

         詳細はWikipedia(徳川秀忠)参照  

 

 秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。 慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式[鬢削」を千姫にしていたのを侍女が目撃している。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘・奈阿姫(天秀尼)が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。奈阿姫は後に[縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となる。
 元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。一説には大坂城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出したが、直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することになったという。直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が疑わしいとされている(実際には堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、というのが真相で、千姫を与えるではなく、嫁ぎ先を探すのを頼まれたのが真実らしい)。
 元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の祟りだと言われた)、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
 寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には江戸城から移った3代将軍家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の3男・綱重と暮らすようになる。これにより大奥で大きな権力を持つようになったとされる。
 寛文6年(1666年)、江戸で死去。享年70。亡くなった夜、於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、京都の知恩院にも分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祀るため伊勢に寂照寺を開いた。
 穏和な性格の持ち主と伝えられ、祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。千姫が亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫(秀頼の娘とは別人)は祖母の菩提を弔うために[浄土三部経(全4巻)」を書き写した(茨城県常総市指定文化財)。千姫は祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられたという。また、弟の家光とも姉弟仲は良好だったらしい。
珠姫 勝姫

 慶長6年(1601年)江戸から金沢に入り、わずか3歳で前田利常と結婚。慶長18年(1613年)長女・亀鶴姫(後に森忠広室)をはじめ3男5女を出産し、元和8年(1622年)5女・夏の出産後に体調を崩し、7月に病没。享年24歳。
 同元和8年、菩提寺として高野山に天徳院が、翌元和9年(1623年)に金沢に天徳院が共に前田利常によって建立された。現在の墓所は、野田山墓地である。
 慶長4年、利家の後を継いだばかりの利長に対し、徳川家康が謀反の疑いを抱き、加賀征伐を企てた。しかし前田家重臣の横山長知が家康に弁明するとともに、利長の生母・芳春院を人質に差し出し、代わりに珠姫を前田家に嫁がせる約束を交わした。これ以後、前田家は親徳川路線に切り替わる。
 輿入れの際、江戸から金沢までの道や橋が整備され、一里ごとに茶屋が建てられ、幼い姫が飽きないよう狂言師や諸芸人も従い、道中の大名たちの歓待を受けながらの豪勢かつ入念な輿入れ道中だったという。
 夫・利常とは政略結婚であったが非常に仲の良い夫婦であったと伝わる。しかし、外様筆頭の前田氏に幕府の情報が筒抜けになることを恐れた珠姫の乳母は、夏姫の出産後母体の調子が宜しくないと言う理由を付けて、珠姫を隔離してしまった。事情を良く知らない珠姫は利常の御成が無くなったのを寵愛が薄れたからと誤解し、衰弱死してしまった。臨終の床に強引に駆けつけた利常は珠姫の遺言からすべての事情を悟り、その怒りから珠姫の乳母を蛇責めにして処刑してしまったという。

 慶長16年(1611年)、従兄弟の越前国福井藩主の松平忠直と結婚。元和元年(1615年)に光長、元和3年(1617年)に亀姫、元和4年(1618年)に鶴姫を生む。
 しかしその後、夫・忠直は心を病み、元和8年(1622年)には勝姫を斬り殺そうとした。この時は、勝姫の侍女二人が身代わりとなって助かった。そして翌元和9年(1623年)、忠直は乱行のかどで秀忠から豊後国での隠居を命じられた。勝姫はこれに同行せず、江戸の高田屋敷に子供3人と共に移り住んだ。
 勝姫は大変気の強い女性だったといわれ、勝姫の孫に当たる国姫(光長娘)の嫁ぎ先である福井藩の松平光通の後継者問題に光長と共に介入、結果、光通と国姫が共に自殺するという悲劇を招いた。
 寛文12年(1672年)、江戸の屋敷で死去、享年72。墓所は東京都港区の西久保天徳寺。
 息子の光長は越後高田藩主となり(ただし後に越後騒動で改易)、長女・亀姫は高松宮好仁親王に嫁ぎ、次女・鶴姫は九条道房に嫁いだ。

 

初姫 徳川忠長

 慶長11年(1606年)7月に若狭国小浜藩主の京極忠高の許へ嫁ぐ。忠高の父・京極高次の正室・初(常高院)には実子がなかったため、初の実妹で秀忠継室の江の生んだ姪に当たる初姫を養女とし忠高と娶わせる事で、徳川家と姻戚関係を結ぶと共に、京極家での初の立場をも安泰なものにするという、一石二鳥の政略だったと思われる。ただし夫婦仲は悪かったらしく、二人の間に子供はいなかった。
 寛永7年(1630年)3月4日に病没。享年29。葬儀は同月14日に小石川伝通院で行われ、同地に葬られた。細川忠興が細川忠利に送った手紙によると、初姫の臨終の時、夫・忠高はそれを無視して相撲見物に興じていたという。また、初姫の葬儀を行い墓所となった伝通院は徳川氏縁の寺院であり、京極氏は葬儀への立ち会いすら秀忠に許可されなかったことから見て、忠高が初姫をむげに扱っていたのは事実と思われる。

 父の秀忠や母の江は、病弱で吃音であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国松を寵愛していたとされ、それらに起因する竹千代擁立派と国松擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったとされる。この争いはのち、春日局による家康への直訴(異説あり)により竹千代派の勝利に終わった。誕生日が不定であることから、秀忠の実子ではなく、懐妊当時、江戸城普請に従事していた藤堂家の家臣・藤堂賢政(一説には浅井氏の出)と江の間に生まれたという説もある。
 元和2年(あるいは元和4年1618年)9月に甲府藩23万8000石を拝領し、甲府藩主となる。のち信州の小諸藩も併合されて領地に加えられた。藩主就任に際し、朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。元服前かつ幼少であった忠長が実際に入甲することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われた。
 元和6年(1620年)9月に家光とともに元服し、名を忠長と改める。元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し中納言に任官。寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を領有し家光に迫る権力を有した。なお、その際に小諸藩領は領地から外されている。寛永3年(1626年)に大納言となり、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行する。寛永6年(1629年)には、秀忠と保科正之の初めての親子の面会の実現にも尽力している。
 寛永8年(1631年)5月に、不行跡(家臣1名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられる(本質的には幕府権力の確立・強化などが目的)。その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、翌寛永9年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。秀忠死後、甲斐府中に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり領国全てを没収され、安藤重長に預けられる形で高崎(上野国)へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉,鳥居も連座して改易処分されている。翌寛永10年、幕命により同地において自害。享年29。墓所は群馬県高崎市通町の願行山常巌院大信寺。
 子には松平長七郎(長頼)がいると伝えられているが、実子の存在は資料上確認されていない。また、母・江の伯父・織田信長に顔立ちがよく似ていたといわれている。
 なお、従来より流布されている家臣や領民の無差別な殺害や、殺生が禁じられていた静岡浅間神社での猿狩りとその後の度を超えた狂乱ぶりが幕府に咎められたとする説は、そのほとんどが信憑性の低い伝聞や伝承が元となっている。猿狩りについても、猿による農作物被害に悩まされていた領民のために行ったという側面があり、暗君像をより強調するため不正確な伝聞や伝承が物語的に後付けされたものとされる。

和子 完子

 慶長17年(1612年)には後水尾天皇が即位するが、大御所・家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。
 元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官・四辻与津子(お与津御寮人)が皇子・賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。翌元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継,高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女・梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ一件、お与津御寮人事件)。
 元和6年(1620年)6月18日に後水尾天皇の女御として入内する。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男・家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領一万石を寄進される。同年11月19日には皇女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。翌寛永元年には冊立され中宮となり、翌寛永2年9月には女二宮が誕生する。翌寛永3年には秀忠,家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われ、和子は同年11月13日には高仁親王を出産している(早世)。寛永6年(1629年)には朝幕間で紫衣事件が発生し、同年10月8日に後水尾天皇は突然譲位し、女一宮に内親王宣下が下される。同年11月9日には院号宣下あって東福門院の号を賜る。翌寛永7年(1630年)9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。
 寛永11年(1634年)には新将軍となった兄の家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院の御所も訪れている。延宝6年(1678年)6月15日、崩御。亡骸は京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。
 家康は徳川家を天皇の外戚とするべく皇子誕生の期待を持って和子を宮中に送り込んだ意図があったと考えられているが、出生した2男5女のうち、2皇子はすべて早世している。そのため、夫と別の女性との間に生まれた後光明天皇を養子として実娘・明正天皇の後継者とし、夫と徳川家双方の面目を立てた。その他、気が強い夫・後水尾天皇と天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯であった。修学院離宮を建てた費用の大半が和子の要請により幕府から捻出されたものとされる。また、後光明天皇の崩御直後にその弟の後西天皇の即位を渋る(後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため)幕府を説得して即位を実現させたのも彼女の尽力によるとされる。
 夫・後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、妻の和子自身もかなりのセンスの持ち主であった。茶道を好み、千利休の孫である千宗旦を御所に招き茶事を行い、茶道具に好み物も多く、野々村仁清に焼かせた長耳付水指が現存する(三井記念美術館所蔵)。宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのは和子といわれ、尾形光琳,乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てたとされる。和子の注文した小袖のデザインは後に年号から“寛文小袖”と言われるようになった。
また、手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした。現在日本現存最古の押絵は和子の作成の物と言われる。また、京の文化人にとっては和子の押絵を拝領することは一種のステータスであり、現在千家では和子作の押絵を多数所蔵しているという。

 豊臣(羽柴)秀勝の娘で、九条幸家の正室。従三位。
 羽柴秀勝と江(崇源院)の間に生まれる。徳川家光には異父姉にあたる。子は九条道房、二条康道、松殿道基(道昭)、栄厳、通君(西本願寺良如光円室)、序君(東本願寺宣如光従室)、三女。