最初は高遠城主の高遠頼継に属して武田晴信の信濃侵攻に抵抗したが、天文21年(1552年)頃に降伏してその家臣となった。武田氏の信濃先方衆(120騎持)の1人として活躍し、下伊那攻めや北信濃攻めに従軍した。特に槍に優れた使い手であったため、「戦国の三弾正」に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸綱の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された。 武田勝頼が高遠諏方氏を継いで高遠城主となると、勝頼直臣としてその幕下に入ったとみられる。天正3年(1575年)の長篠敗戦後には、三河から信濃伊那に逃れた勝頼を息子・正直が迎えた。その後、勝頼から8月10日付で28か条に及ぶ「覚」を与えられ、武田信豊の元で織田軍の信濃侵攻に備えて伊那郡の防衛体制の構築を命じられ、正俊自身も正直と共に大島城に配備されている。 天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、正俊は水内郡の大日方直幸(直武の孫)を頼った。本能寺の変で瓦解した旧武田遺領を巡って後北条氏,上杉氏,徳川氏の三者が対立すると、正直・昌月兄弟は後北条氏に従い、同じく後北条氏に従った縁戚の真田昌幸の引き合わせにより正直ら一族と再会する。正直・昌月兄弟は北条軍の元で高遠城を奪回し、箕輪城の藤沢頼親と共に上伊那郡を制圧した。しかし8月、甲斐黒駒合戦で後北条氏が徳川氏に惨敗したのを見て、正俊・正直父子は徳川方に転じた。 天正13年(1585年)8月、正直が第一次上田合戦に出陣すると正俊が高遠城の留守を預かった。しかし12月、石川数正が家康の下から出奔すると、豊臣方に寝返った松本の小笠原貞慶が3000余りを率いて高遠に攻め入った。高遠城には老齢の正俊の他に騎馬40騎と雑兵360人程しかいなかったが、正俊が自ら指揮を取り、奇策を用いて鉾持除の戦いで小笠原軍に大勝した。このことで信濃の徳川方の崩壊は回避され、徳川家康は正俊の戦功を称え12月24日付で正直に包永の太刀を贈った。
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父と共に甲斐武田氏に仕え、信濃国飯田方面を守備した。保科氏は諏訪郡の高遠氏家臣であったが、正俊の頃に甲斐武田家の直臣となった。 天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲州征伐に際しては飯田城に籠城し、2月14日には織田信忠による攻勢を受けて坂西織部亮,小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡している。高遠城では仁科盛信とともに籠城していたが城を退去し、実弟内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れる。 本能寺の変以後の天正壬午の乱においては、昌月とともに後北条氏に帰属し、正直・昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍する後北条軍の別働隊として高遠城を奪取することに成功した。その後は甲斐における黒駒合戦において徳川家康が優勢に経つと、依田信蕃,木曾義昌ら他の信濃国衆と共に徳川方に転じた。 北信濃を除く武田遺領を家康が確保すると、2万5,000石を領した。天正12年(1584年)に小牧長久手の戦いが起きると、木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、家康は正直や諏訪頼忠、小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したが充分な戦果を上げられず、正直を抑えに残して撤退した。天正13年(1585年)には上杉景勝に通じた真田昌幸の拠る上田城攻め(第一次上田合戦)に従軍して活躍した。その後、家康の異父妹久松松平氏と縁戚となって勢力を伸ばした。 天正17年(1589年)に秀吉が京都大仏を造営するに当たり、家康の命令で富士山の木材伐採を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に1万石の領地を与えられた。天正19年(1591年)の九戸政実の乱鎮圧にも参加した。 慶長6年(1601年)9月29日、高遠城で死去した。享年60。
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はじめは父と共に武田氏に仕えて槍働きの功績から「槍弾正」と仇名され、城攻めに功の多かった真田の「攻め弾正」や作戦に慎重な高坂の「逃げ弾正」と共に武田家の「三弾正」と言われた。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は徳川家康に従い高遠城を預かった。天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に1万石の領地を与えられた。天正19年(1591年)の九戸政実の反乱鎮圧にも参加し、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵においても家康に従って肥前名護屋城に在陣した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して遠江浜松城を守備する。その功績により、戦後の11月に旧領に戻されて高遠藩2万5000石を立藩する。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として淀城を守備し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では天王寺の戦いで武功を挙げた。 元和3年(1617年)、江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠の側室の子で、秘匿されて武田信玄の娘の見性院に預けられていた保科正之(幸松丸)を養子として迎え、その養育に当たった。元和4年(1618年)には秀忠の上洛に従った功績として5000石を加増されて3万石の大名となる。 寛永8年(1631年)10月7日に死去。享年71。 正光には養子として弟の保科正貞を迎えていたが、この正貞とは不仲であったために(一説には正之に遠慮して申し出たとも)廃嫡し、同じく養子の保科正重も早世したため、遺言で家督は保科正之に継がせている。
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兄が早世したため世子となる。延宝7年(1679年)に従五位下、兵部少輔に叙位・任官される。貞享3年(1686年)10月25日、父の隠居により家督を継いで第3代藩主となる。 元禄元年(1688年)に大坂加番に任じられ、元禄3年(1690年)8月には奥詰に任じられて元禄5年(1692年)5月まで務めた。元禄12年(1699年)には再び大坂加番に任じられている。その他にも日光祭礼奉行を4度も務めるなど、諸役を歴任した。元禄15年(1702年)に正賢と改名する。 正徳4年(1714年)12月22日に江戸で死去。享年50。後を長男の正殷が継いだ。
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