清和源氏

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保科正之

 慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍・徳川秀忠の4男として生まれる。母は秀忠の乳母の侍女で神尾栄嘉の娘・お静。秀忠はお静の妊娠を知り、正室お江与の癇気を恐れたためか、お静を武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預け、見性院に養育された。
 お江与の死後、寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会が叶う。寛永8年(1631年)高遠藩3万石の藩主となる。秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。
 寛永20年(1643年)、陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる(この際、正之の嘆願で保科正貞も大名に取り立てられて保科氏を存続させた)。以後、会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
 慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦った。
 寛文9年(1669年)、嫡男正経に家督を譲り隠居。 寛文12年(1673年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去。享年63。生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学び、寛文6年(1666年)には領内の寺社を整理して神仏習合を排斥しており、神式で葬られた。正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通した。第3代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され親藩に列した。
 家光の死後その遺命により、甥の4代将軍・家綱の補佐役として幕閣の重きをなし文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し各藩のお家断絶を緩和。先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済するとともに江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は戦乱時において必要なものであって、天下太平の世においては無用のものであり無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。また朱子学を藩学として奨励。好学尚武の藩風を作り上げた。 また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の始まりとされる。 同時代の水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されている。